益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

第2の故郷、神戸へ
異人館に魅せられて“途中下車(1)”

一九三四年(昭和九年)八月、遂に上京をめざし親子三人で神戸へ出る。このとき私は三十歳。幼児を抱えて無理とは知りながら、わずかの金とギリギリの所帯道具、絵の具箱とイーゼルと自転車を持って高知を脱出、汽船で神戸に上陸したが、上京の途中に、上筒井に住んでいる妻の姉の家へ別れのあいさつに立ち寄ったことが、一生の運命の分かれ道になろうとは!

このせち辛い世の中で、頼る人もなく職もなく、金も持たず子連れで上京するとは無謀も甚だしいと叱(しっ)責され上京を断念して、何とか見とおしのつくまで、と、姉の持ち家に落ちついたのである。

そこは小さな家ではあったが、六甲山ろくの静かなたたずまいで、家の前は一面の小松原、道の曲がり角に大きな柳の木があり、つい最近までタヌキが出ていたと、豆腐屋の親父さんの話であった。家賃十八円。なんとかやってゆかれる、と、当分の住まいと思ったものが、そのままそこに住みついてしまった。(現在は当時の面影もない密集した住宅街となっている)。

ともかくもここに居を定めて、私の画生活が始まった。神戸の街は明るくてエキゾチックで、しかもミナトコウベとして、大きな労働と生産の一面もあり、私の絵心をそそるに十分なものがあった。しかも北野町界わいの異人館は、かつて中学生時代、修学旅行の際見かけた印象が脳裏にやきついている。神戸に居を定めるとなるや、いの一番に描きたいと思ったのがこの異人館だ。しかし私は、かねて目をつけてあった山本通のグラッシャニー邸を描くよりも先に、まず目に止まった三階建ての異人館・ゼリーボンボン店を描きはじめた。汽車はまだ高架になっていず、元町の北側の路面をシュッポシュッポと走っていた時代だ。まくら木の柵(さく)が両側に立っており、その黒い柵に沿って赤い夾(きょう)竹桃が咲いていて、私の詩情を呼び起こした。店はゼリーボンボンの二つの看板の、上が赤字に白字、下が黒地に白地でダブっているのがとてもモダンで面白かった。入り口には「日清戦争戦勝記念」と白字で書いた大きな大砲の弾が二個置いてあった。今はもう当時の面影はないが、神戸へ来て最初に描いた絵として、特に印象深い。次に描いたのは大石川駅の北側の医院の異人館だ。それは私の好きな暗黄緑色に塗られてあり、詩情に満ちあふれていた。この柵から左へ五十メートルくらいのところを大石川が流れていた。