益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

小学生のころ
町内きっての“わりことし” (1)

私の生まれは高知県土佐郡旭村。父・石吉は安芸郡の出身。樽(たる)かつぎからたたき上げた人で、酒造りの名人。外では仏顔といわれる好人物だったが、家では泣く子も黙るというきびしい人であった。母・とらは大きな酒屋の娘でおんば白傘で育った人とは思えぬ働き者で、生涯働きとおした明治女の典型を見るような女であった。

私はその九人兄弟の三番目で、幼いときの記憶と言えば、町内きっての・わりことし・(いたずら小僧)だったと言うに尽きる。小学校はすぐ近くで、北に鴻ノ森を望み、まだ障子の入っている木造の校舎で、全校生四百人くらいの親しみ深い所だったが、私は毎日勉強はそっちのけで、学校から帰るとカバンをポンとほうり込んで、日が暮れるまで山へ行き、栗(くり)山の栗の実を落とす、畑の芋を引き技くなど遊び暮らし、川へ行けば一日中川浸しで魚捕りをしたものだ。

あるとき近所の年上の青年と一緒に桶(おけ)漬けに行ったときのことは、今でも忘れられない楽しさだった。桶漬けというのは、蚕のさなぎと、ぬかを煎(い)ったものをまぜて作った餌(えさ)を金だらいに入れ、中央に穴をあけた布をピチッと張って、浅瀬に川底の砂と同じ高さに埋(い)け込んで漬けるのである。すると白いにおいの液体が川下に流れはじめる。たちまちハエが一列に餌に沿って集まって来て、穴からぞろぞろと金だらいに入るのである。五十メートルも行列になって入り、餌がなくなると、私は川に飛び込んで穴に手でふたをする。ツンツンツンと手の腹に当たる感触は、何とも言えないうれしさだった。

その日は大漁で、川上十キロメートルも上ってとうとう家に帰らず、河原で火をたいて捕った魚を焼いて食べ、翌日また朝から川漁をやり、夕方大かごにいっぱいハエを捕って得意になって家に帰ったものだ。家では益やんが川へ行って帰らないというので、近所の人々が集まって大騒ぎしているところだった。私はおやじに散々しかられ、高さ三メートル、径二メートルくらいの大きな空き酒桶にほうりこまれ、おしっこをしたくても出してもらえず、とうとうその中でやってしまった。あとで熱湯で桶を洗うやら大騒ぎだった。また伯父さんに投網をもらい、家から三キロメートルくらい離れた北川というところへ網打ちに行ったり、寒ブナ釣りをやったり。