益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

戦後の出発
発奮 アトリエを建てて…(1)

戦争は終わった。世の中は大きく変わった。やがて復員兵が続々と帰国しはじめる。八月末、早くも米占領軍第一陣上陸。マッカーサー元帥が厚木到着。十月には治安維持法廃止令が出て、政治犯釈放。徳田球一、宮本顕治氏らあいついで監獄から出て来て、日本共産党の公然たる活動が開始される。農地改革、総選挙、食糧危機、憲法公布−等々、騒然たる世情は山深い室生にもひしひしと伝わって来る。

わが街・神戸は、異人館は、どうなってるだろう?私はすぐにでも飛んで帰りたい思いだった。しかしそれから一年半、室生にとどまらざるを得なかった。疎開中一緒に暮らした母が病気になり、寝ついてしまったのである。病名は「悪性貧血」。一種の風土病だった。母はそれからの約一ヵ年を寝たっきりで、ろうそくの灯が消えるように衰弱して死んだ。はからずも見知らぬ土地で命尽きた母だったが、寺と村の人の好意で、この土地の風習どおりの手厚い葬式をしてもらってありがたかった。最後までお世話になった室生の人たちの好意は終生忘れないであろう。

一九四六年(昭和二十一年)十二月、亡き母の四十九日をすませた私たち親子六人は、焼け残った神戸の家に、第二の人生が始まる思いで帰って来た。私の戦後はここから始まる。

焼け野原と化し今や復興の目覚ましい神戸の一角に、私の家は幸い焼け残っていた。しかし、疎開中、空襲で焼け出されたということで留守の家を貸してあった知人は、なかなか家をあけてくれず、不自由ながらも家族六人、二階で暮らすことになった。戦後の混乱の時期を悪戦苦闘の生活がしばらく続く。金も無く職も無く、戦時中にも劣らぬきびしい食糧事情の中を、何とかしのいだが、乏しいながらもタケノコ生活に頼って妻子の衣料品ばかりでなく、書棚から大切にしていた画集が一冊二冊と消えていくのは、わびしい限りだった。