益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

忘れえぬ人々
美校の先輩、家族づきあいの友(1)

神戸を第二の故郷として離れ難くしたものとして、「異人館」のほかに、私の画生活を励まし見守ってくれた先輩、友人、よき理解者のあったことをも、忘れることはできない。

山本通一丁目に、小磯良平氏の大きな邸宅があった。邸内に独立した立派なアトリエがあり、氏は美校出の先輩であり、アトリエは私の写生地域の中心にあったので、いつの間にか氏のアトリエに出入りして、随分いろいろとお世話になったものだ。何かにつけて教えられること多く、あるとき氏に「先生になって下さい」と言ったら「友達でいいんだよ」と言われて、ありがたかった。

よく氏の描く絵のモデルにもなったが、私の生活苦を知っての氏の温かい配慮だったと感謝している。「人々」(二百号)の人になったり、「娘子関を行く」の兵士になったり、「語る人」では中村鐡氏と話している人になったり、思い出の絵は多い。

私の外にも中村鐡君をはじめ中川郷一郎君、中川力君ら、アトリエに出入りする絵描き仲間は多く、温かい交友が続いた。現在、物故した人もあるが、いずれも、ここで若き日の情熱を燃やしたものだ。また若い連中が引き連れられてデリカテッセンでドイツ料理をごちそうになったり、高価なブランデーを勝手に飲み尽くして、あとで値段を聞いてびっくりしたり。小磯氏を囲む若き日の温かい思い出は尽きない。忘れもしない「このごちそうのお礼は何で返せばよいでしょう」と聞いたとき、氏は「後輩に送っておきたまえ」と言われたことだ。

神戸へ来た年(一九三四年)の九月、私は二科展に一点入選。三回目の入選だった。神戸へ来ていまだ日も浅く、知人もわずかしかない時に、金も無い無名画家の私に、二科展入選画家として神戸ではじめての個展をやらせてもらった鯉川筋画廊・大塚銀次郎氏の好意も忘れ難い。大塚氏は元毎日新聞の記者をしていて、退職後画商を始められたものだが、商売気を離れて若い画家育成のため、よくいろいろと世話をされた。私もご多分にもれずその世話になった絵描きの一人である。