益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

新書人連合会員小松益喜先生は、(同じ会員同志としていつも小松さんで通してきたが、今は小松先生と申し上げるのがやはりふさわしい)平成十四年五月九日朝、東京都内の病院で老衰の為長逝された。97才の天寿を全うされた大往生であった。十一日午前十一時から、東京都葛飾区亀有の長永寺にて葬儀が行われた。私はどうしても参列出来ず、遠く神戸より合掌するのみであった。

平成六年の秋小松画伯は、神戸市庁舎のギャラリーで回顧展を開かれ、その後静養の為ご夫妻で、ご子息のおられる東京に行かれた。直後の七年一月十七日の阪神大震災でアトリエは大被害を受け、そのままお帰りになれなくなった。私もそれ以来お目にかかれないままとなった。それから七年を経てこの悲報に接したのである。

小松先生は洋画家として新制作協会の会員であり、とりわけ神戸では異人館の画家として、誰知らぬ者のない方であった。その小松画伯が、第五回新書人連合展に、中国半紙一枚に万葉歌一首を書かれて公募出品されたのである。事前に出品の意志を聞いた私は、正直聊か躊躇するものがあった。半紙一枚の出品があまりにも常識外だったからである。しかし先生は、入落など全く意に介さぬ風で、出品してしまわれた。

結果は最高の評価で終り心配は妃憂となった。当時は審査を創立会員全員で行っていたが、全審査員の一致した評価であった。その作品は写真に掲げた通りである。六回展に折帖貼交ぜ、七回展に二曲屏風貼交ぜで、三年連続の評価で81年から新会員となられたのであった。

小松先生の書に私が初めて接したのは、アトリエをお訪ねした祈に、中国半紙に、啄木の歌を書き散らしてあるのを見た時である。その何とも自然なタッチとリズムの書に、私は驚いてその感想を申し上げた。その時の小松先生の話によれば、高知におられた時に、山崎大砲氏にしばらく漢字を習われたそうで、鄭義下碑や張猛龍碑などをよく臨書されたらしい。ある日突然拙宅にお越しになり、背負ったリュックから半紙千数百枚の張猛龍碑の臨書を出されて驚倒した事もあった。

先生はまた良寛が特にお好きであった。良寛研究家の東郷豊次先生とは親しくされていた。秋萩帖や十五番歌合など草のかなの筆蹟なども、必ずしも写実的ではなかったが、先生一流の方法で臨書されたりもしておられた。

先生は洋画家でありながら、東洋画論にも通じておられるようで、よく芥子園画伝の話をされたり、日本画家の小杉未醒(放庵)の絵が好きだと話されたこともあった。先生のあの洗練され垢抜けした品格高い書は、こうした習書の下地と、広い教養と視野の産物といってよい。

先生とは、室生寺、白川郷、信州と、何度も小旅行のお供をした。白川郷で民家をスケッチされるのを日がな一日傍で見ていたりした。寸時も休まない、流れるようなリズムの手の動き、またある瞬間は打楽器を打つごときタッチの鋭さで、思わず引き込まれてしまうのであった。

ある時拙宅でお話していると、突然今から字を書きたいといわれた。画仙紙をいろんな形の小片に切り、形や毫の違う小筆を十数本用意すると、私の見ている前でたちまち数十点の作品を書き上げてしまう。素材は茂吉の万葉秀歌と小倉百人一首である。作品の出来栄も見事であったが、その揮毫の、聊のためらいもない鮮やかな運筆に、私はただあきれて見るばかりであったが、ふとあのスケッチを書かれる時のリズムやタッチがそのまま生かされているのに気付くのであった。

平成六年の第21回新書人連合展に「はるのとり」を出品されたのを最後に、小松先生の作品は見られなくなった。十七年間のこの天才の書制作を、傍でつぶさに拝見出来たことは私にとって何よりも財産となった。今思えば、得ることばかりであった。いつか私も、先生のように鮮やかに聊のためらいもない態度で書きたいと願望しています。


(合掌)