益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「神戸平和美術展」
妻も多彩に“わが道をゆく”(1)

いつのまにか神戸に住みついてはや五十二年、アトリエを建ててからもう三十五年の歳月を経過した。この間、絵を描く以外に何もなかったわが生活を顧みてみて、妻子を抱えながら、よくぞここまでやって来られたものだと、今さらながら感慨が深い。私はいつまでたってもなかなか絵が売れない画家として、充実した面生活に比してそれを支える経済的基盤はきわめて弱く、家族の生活を背負う責任を果たし得なかったと言わざるを得ないのである。

もともと、私が建物の絵を描き始めた当初、「そんな他人の家なんか描いて売れるのですか」と、よく言われたものだ。案の定、私は新制作協会の会員となり、度々賞をもらい、職業画家としての地歩を固めながら、いつまで経っても「なかなか絵の売れない画家」だった。売れないことを覚悟で描く画家に、生活の保証はなかった。画家たる私にとっては、自ら選んだ道を悔いることはないはずだが、絵の売れない画家の最大の犠牲者は家族である。とりわけ妻にとってどのように長い苦難の日々だったことか、今にして顧みれば、想像に余りあるものがある。

このような中で、妻は生活費の補いに内職を励みつつ、子供たちのためには手作りの洋服、手作りの絵本など、あらゆる手段を講じて出費を抑えていたようだ。幸い、子供たちは健康で明るく、それぞれの道を求めて成長していったが、自給自足に似た妻の生活は多忙をきわめ、家事・育児に埋没して、自らの成長を計る余裕のない嘆きは大きかった。かつては同志として肩を並べ、歩調をそろえて活動した二人だったのだ。それが分からぬ私ではなかったが、どうすることもできなかった。

しかし妻は、子供の成長に伴いPTA活動などに積極的に参加し、やがてわが道をゆく、と、生活の活路を見出して、地域の婦人の読書会や子どもを守る会など、身近いところに仲間づくりを始め、原水禁運動に異常な情熱をもって参加していく。次第に母親運動や兵婦協の結成など、県下の婦人運動に献身し、寧日なき多忙の身となった。家庭を顧みない夫を抱え、家事・育児と婦人運動を両立させようとする妻の努力は、目を見はるものがあった。若き日の活動を想起して、私は、激励と孤立の複雑な心境を体験する。そして私もまた、次第に軍国主義化していくきびしい情勢を実感として受けとめる。