益喜を語る

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海外旅行
新風流人…揺るがぬ“異人館”への愛着(2)

この時の作品は、帰国後すぐに大阪梅田画廊で「滞欧作品展」として発表。つづいて第二十三回新制作展に「ブルーバー・モンパルナス」「シャトル風景」「ルウ・ド・モンパルナス」「ガル・ド・モンパルナス」等を出品した。パリの息吹がまざまざと感じられて、特に印象が深い。

海外へはその後も数回、フランス、ソ連、東欧、中国等への写生・研究旅行をして、それぞれ特徴ある収穫を得たことは、その後の画生活にも大いに役立った。一九八〇年にはアトリエの若い連中を引き連れて、欧州六カ国の美術館巡りをしたことも、得難い勉強になったものとして、再度の機会を期待されている。

こうして私の海外旅行は、画家としての目を一段と広く深く研ぎすまし、さらに新しく「異人館」に対処することになる。

しかし世情は戦後の荒廃と混乱の時期から高度成長期へとめまぐるしく推移し、複雑な変ぼうを来たす。新しい波は生活のすべての面にそれぞれの形をもって迫る。それは画壇においても別ものではなかった。若い画家たちがつぎつぎに育ち、あらゆる部門に新人の登場。国際交流も盛んになり、開かれた画壇には海外から新風の流入もある。一九五一年、サロン・ド・メエ展、マチス展が東京で開かれ、美術界が活気を呈したのをはじめ、五四年「世界今日の美術展」では世界を風靡(ふうび)した抽象画が一気に日本画壇に紹介され、大きな刺激剤が与えられるの感あり、また、デビュフエ、フォートリエ、マテユー、アペルらの絵が海を渡って来る等々。

そうした情勢下で、戦前からの作風に行き詰まりを感じたり、不満を覚えた作家たちが抽象へ走り、新制作展にもその傾向の絵の増加が際立って来た。それは自由と独自性を尊重する新制作展にとって当然の現象だったし、新しい発展でもあった。しかし私自身にとっては、それらはすべて他山の石に過ぎなかった。長年愛着と信念をもって追求しつづけて来た私の絵の土壌はゆるぎなく、際限なき奥深さをもって私の画面に迫って来る。それを表現するのが「異人館」だ。私は変ぼうする山本通・北野町の中に焼け残った異人館を求めて、日月の経過を忘れて描きつづける。今や北野町・山本通はわが庭であった。