益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

絵筆を折る
左翼運動の過労に倒れ古里へ(1)

どうにか美校は卒業したが、就職する意志はなく、私は、わずかのアルバイト収入と妻の稼ぎに支えられて、マルクス主義の研究と絵を描くことに明け暮れた。もはや私の読む本は「マルクス主義」であり、「インターナショナル」だったのである。この年の秋、二科展に初入選の絵「雨の止んだ時の風景」は六号Pという、全出品中最小の作品だった。到底大作の描ける状態ではなかったのだ。

そのころ妻は勤務先の日本電気KKでの組合活動が発覚してクビになり、収入の道は全く途絶えた。職を探してして転々とするうちに全協活動家となり、オルグやニュース発行などに必死な日々であった。深刻な不況の中で各地で労働争議が勃(ぼっ)発し、共産党をはじめ左翼関係の動きに対する干渉・弾圧も激しかった。このような情勢の中で新しい文化運動にもいろいろな波が起こるのも当然である。組織を離れていく者、新しい方向を目指して分裂していく者、実践活動の中に潜入する者等々、騒然とする中で、私も次第に安閑と絵を描くだけの生活は許されず、妻の活動を助け、全協ニュースの発行に積極的に協力することになっていった。

やがて絵筆を折って「赤旗」印刷の仕事に参加することになる。それは党の秘密を守りつつ迅速に、正確に、党の方針を大衆の手に渡す新聞の発行という命がけの仕事だった。私の仕事は挿絵を描くという、私にとって 一番可能なことであったが、その任務の重さは全員が等しくおわされるものである。私はその仕事の中で極度の緊張と過労のためとうとう倒れてしまった。九日間の昏(こん)睡状態のあとに来たものは痴呆性記憶喪失症。同志の顔も親しい友人の顔も一切わからず、ただ覚えていたのは妻の顔だけだった。同志や友人の手厚い看病を受けたが、結局、東京では病気回復の見込みたたず、妻と二人、郷里高知へ帰ることになった。時正に満州事変が始まろうとする騒然たる世の中を、時代の動きに何のかかわりもない抜け殻の様な身になって故郷へ帰るとは!後になって考えるとなんとも哀れなものだが、当時の私にとっては何の感慨もなく童心そのもの。妻の苦労こそ大変なものだったろうと、今にして述懐するのである。