益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

絵筆を折る
左翼運動の過労に倒れ古里へ(2)

郷里の高知では、父が野市で醸造を始めていた。高知市の東方約五里(約二〇キロメートル、広々とした香長平野の一角に建てられた酒倉は、都会では見られぬ静けさと落ちつきがあった。ちょうど九月のはじめで、酒造りにはまだだいぶ間があり、閑散とした庭には大きな酒おけがごろごろと並らんでいた。早く実りはじめた早稲の黄色い波にとり囲まれ、開け放した窓からは幼児を想い出させるような稲の香りが流れ込んだ。久しぶりに帰って来た私たちを家族の者は温かく迎え入れてくれたが、私は父の顔も兄妹の顔もわからず、ただ母の顔だけは覚えていた。「かかさん…」と呼んだ時、母は思わず涙を流したと、後日聞いた話である。

ここでの生活は私に何の記憶も残っていない。後年妻から聞くところによれば、私は 毎日何をすることもなく、ただぼんやりと日を送っていたらしく、ある日、妻から勧められて前の小川へ釣りに行き、なんと、カエルを釣って来たという。私はそのカエルをじっと見つめているうちに写生を始め、奇跡とも言うべき人間回復のきざしを発見したということだ。カエルからチョウ・トンボへ、家の周辺の景色から近くの小川や田園の風景へ、と、写生の対象を拡大して描くうちに、だんだんと記憶が回復し、一生治らぬやもしれぬと言われた病気を、遂に克服することが出来たのだった。

「あなたはやっぱり絵描きだったのね」と、妻はしみじみと感慨をこめていったものだ。

しかし家族の安堵もつかの間、私は病気回復を待ちかねたように、高知の友人たちとの接触がはじまり、年が明けると共に高知の反戦・共産主義運動に参加することになる。折しも、一九三二年上海事変勃発。高知44連隊からも中支へ向けて出兵という事態を目前にして、侵略戦争反対!と、反対同盟の青年たちの果敢な行動が開始される。私は病後のこととてニュースやビラにカットを描く程度のことしかしなかったが、志は一つだ。治安維持法違反容疑者一斉検挙の手を逃れることはできなかった。県下五十余名の被検挙者の一人として妻と共に捕らえられ、須崎署(高知市の約十里西)へ送られることとなった。一九三二年四月の事である。