益喜を語る

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海外旅行
新風流人…揺るがぬ“異人館”への愛着(1)

アトリエは画家の根城だ。長い間、ただ絵を描くことと生活に追われて、六甲地区を転々としながらも、自分のアトリエを建てることなど思いもしなかったものが、狭い相住まいの不快さがきっかけで、とうとうわが根城、小松アトリエを持つことができたとは! やればやれるものだという、何とはなしの自信と、これから存分に絵が描けるという喜びは大きかった。

また、なかなか絵の売れない私にとって、アトリエを一週一回美術教室として、定収の道を考えたことも、あまり好ましい道ではなかったが、ささやかながら生活の安定を得たものとして、妻子にもこれまでにない安堵(ど)感があった。このとき長女は大学生、長男は高校生、二女、二男は小学生。学資にも追われがちだった子供たちに対しても、少しは父親らしい顔ができたというものだ。

それからの三十五年、私の生活はここにすっかり定着した。私はここを根拠地として、ひたすら絵を描き暮らし、また画家としての行動に取り組んだ。年ごとの新制作展への出品も、度重なる個展も、「神戸の異人館」その他画集の出版も、すべてここから出発したものだ。悲喜こもごものアトリエの歴史は、つねに私とともにあった。ここを離れての画生括といえば、海外旅行くらいのものだろう。それとて私の画生活と切り離されたものではないが−−。

海外旅行の第一号は、一九五八年、念願の渡欧、十カ月の写生旅行を果たしたときだ。今日でこそフランスは二日で行かれる身近いところにあり、観光旅行の花形となって、さして珍しいところでもないが、当時は画家にとってのメッカであり、あこがれの地であつた。しかも金もろくにない私が、友人、知人の後援、妻子の犠牲的援助のお陰で渡欧を実現させ得たのである。多くの友人に見送られ、神戸の港を出て約一カ月目にマルセイユに着いた時の感激は、画家にのみ味わい得る最高のものだったといえよう。さらにパリに着き、欧州各国を巡り、ユトリロやシスレーたちの絵そのものの実景に接した感動。これまで複製でしか見られなかった名画の実物(ほんもの)に見入った驚き−等。私はそれらのものをむさぼるように吸収し、感動し、たくさんの滞欧作品を持ち帰った。