益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

暗い時代
わが子の“軍国少年”ぶりにがく然(1)

一九三四年神戸へ来て以来、ただ無我夢中で絵を描き続けた十年間、世情は戦争への道をまっしぐらに突き進んでいった。一九三七年盧溝橋事件に端を発した日中戦争はいよいよ深刻化して、相つぐ戦況ニュースが日々の新聞をにぎわした。それと歩調を合わせるように、国内では日本無産党、日本労働組合評議会の結社禁止をはじめ、進歩的な思想・文化団体は次々に解散させられる。一九四〇年には大政翼賛会が発会。翌四一年には言論・出版・集会・結社等臨時取締法公布。アメリカ映画の上映禁止令まで出されるようになった。

うっかりものも言えない状況の中で、出征・英霊帰還がくり返され、米、みそ、しようゆ、砂糖、マッチなど、生活必需物資の配給制が拡大されていく。妻たちには防空訓練なるものが強制され、日常生活の緊迫感はただごとではなかった。

しかし私は、そのような危険な世相をよそに、毎日無我夢中で絵を描くばかりだった。生活は苦しかったが、暗い世相に抵抗する術も知らず、絵を描くことが唯一の救いだった。私は昭和洋画奨励賞でもらった賞金でせいいっぱい絵の具を買い込み、万一の事態に備えた。

一九四一年、神戸へ来て初めての年に生まれた長男新樹(あらき)が小学校に入学、国民学校一年生となり、一変した軍国主義教育にがく然とする。わが家では貧しいながらも子供たちには自由と人間愛にもとづく教育をして来たつもりだったが、小学一年生の長男は毎朝東方に向かって皇居遥(よう)拝、八幡神社に日参して出征兵士の武運長久を祈る。そして「ボクらがこんなに暮らせるのも、みんな兵隊さんのおかげです」とたどたどしい字で作文を書き、「早く大きくなって兵隊さんになりたい」と目を輝かせる。この軍国少年を、もはや親の力ではどうすることもできなかった。