益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

暗い時代
わが子の“軍国少年”ぶりにがく然(2)

やがて私も安閑と絵を描き続けることはできない状況に追い込まれる。絵の具の配給は極端に少なくなり、写生地には軍部の干渉がきびしい。街には軍歌と戦争画がはんらんし、画壇の先輩・知友たちは従軍画家として続々と戦地に赴く。わが神戸でも出征画友の歓送会が度重ねられるようになった。従軍画家は絵が描けるというだけでなく、生活の面でも軍部からの庇(ひ)護があり、他目にもそれと分かる配給物などもあって、うらやましく思う面もあったが、私にはそれはできなかった。たとえそれが純粋な画家としての目で描いたとしても、戦争画なることに違いないのだ。残った画友の多くは徴用工として、絵筆を待った手にハンマーや旋盤のハンドルを握るという、過酷な労働が強いられた。非常時国策に応じない者には非国民というレッテルが張られ、何かにつけて不当な扱いを受け、時には獄につながれる者すらあった。中央画壇にも戦時色が濃厚となり、有名画家の従軍風景画が好評を博したが、次第に戦時下の材料不足で小品が多くなった。重い、暗い時代だった。

私は幸か不幸か軍隊の方は丙種合格のため兵役の義務なく、また工業学校出身という経歴がありながらも、一度も就職してなかったために、軍需工場への徴用を免れることができた。このような時代にとにもかくにも絵を描いて暮らせることは幸いだった。しかしこの年の十二月八日、対米英宣戦布告を聞く。とうとう来るものが来たと思った。

戦時色一色の中でいよいよ異人館を描くことはできなくなった。元居留地に中国からの捕虜収容所が出来、絵を描くことを憲兵から禁止される。北野町界わいも、家三軒以上並ぶ絵を描けば地図と見なすという。仕方なく画材を大和古寺に求め、奈良県字陀郡・室生寺を描きに行ったことが、戦時下を全くの見知らぬ土地・室生に暮らすことになったのである。運命とは面白いものだ。私は写生中に出会った郵便局長・松平英一氏の紹介で、室生寺山林事務所主任・奥本幸一郎氏と相知るようになり氏の好意により室生に疎開することになった。一九四三年八月、疎開第一号だった。

室生は大和とは言うものの、伊賀の国・忍者の里も近く、深い山に囲まれて、まさに桃源郷とも言うにふさわしい別天地だった。現在はすっかり観光地と化して交通の便もよく、人家も増えているが、当時は夜ともなれば仏法僧の声が聞こえ、高い杉の木立からむささびがとび下りて来るという、神戸では想像もできなかつた山国だった。美しい室生川の渓流に臨んだ杉林の中に「女人高野」と言われて来た堂や塔がひっそりと点在していた。私たちは奥本氏のお世話と寺の好意で、この山林事務所の広い一室と五十坪の畑を借りうけて、自給自足の構えを整えたのである。