益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

絵ごころの目覚め
再度の失敗後 待望の美校へ(1)

少年時代を奔放自在に生きてきた私にも、思春期は人並みにやってきた。学校は私立(のち県立に)高知工業学校の電気科。電気科を選んだのは近代科学、電気に対する少年の夢があったからだ。しかし私は、いつか、未来の電気技師をめざすことを忘れて、漱石や武者小路を読み、トルストイやゴーゴリを読み、徹夜でドストエフスキーを読んで感激する文学青年の卵となっていた。

兄が文学青年で、その蔵書の文学書を片っ端から読みはじめたのがきっかけだったが、人並みに人を愛することを覚え、失恋の痛みから、自己を裏切らないものは何か、と考えるようになった。物理だけは好きで95点もらったことと、剣道初段で川崎善三郎先生にかわいがられたことが、辛うじて私を硬派学生の位置にとどめていたようだ。親せきに中沢順一という絵の好きな少年がいて、その影響で絵を描くことを覚え、放課後はよく一緒に描きに行ったものだ。人に見られるのが嫌で山へ登って描くものだから、空のない風景画ばかり描いた。あるとき先輩の高橋亮君から「君の絵には空気がない」と批判され、大きなショックだった。空気はどうしたら出るか、調子が分かれば自然に出るものだということが自分で理解感得できたのは、美校入学一年前、下落合風景を描いたころからのことだった。

工業学校は中位の成績で卒業したが、未来は電気技師の夢は消え、進学は美校(現在の芸大)を目指すようになった。しかしこれには両親ともに大反対。高等工業学校醸造科に行くなら学資は出すが、美校などはもってのほか!と、勘当も言い渡すすさまじき強硬態度である。絵描きといえば貧乏絵描きと相場が決まっていた時代に(財あるものは別だが)美校入学に反対するのは無理からぬことと、今となっては両親の気持ちも思いやるのだが、その時はただ情けなく、しかし志を押え難く、親父の信頼するお得意先の岩崎氏に頼んでもらって、やっとどうにか許可を得てほっとしたことだった。