益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

絵ごころの目覚め
再度の失敗後 待望の美校へ(2)

しかし入試は見事失敗。無理もない、六人に一人という入学率だったのだ。それから一年間、川端学校に通って、必死になって画家としての基礎的な勉強を創意工夫して励んだ。同期生に中村茂雄、木村郁太郎、打下武臣の諸君がおり、これらの友人は美校にも同時入学して、生涯の画友として親交したものだ。画学生の浪人生活は決して無駄足・足踏みの画生活ではなく、美校入学が一時期遅れるというだけのことで、その勉強においては何ら変化や損失のないものである。かえって必死な意気込みが勉強に迫力を添える。私はこの期間貴重な勉強ができたと感謝している。

やがて私は、石膏(こう)デッサンが淡い調子で描けだして自信ができた。しかし翌年の入試もまた失敗。これは試験場で友人の絵を直してやったのがカンニングと見られ、長原孝太郎先生につかまって「帰れ」と命ぜられた。その友人はパスしたが、私は落第という悲運に見舞われた。その翌年やっと入学。待望の美校生となったのである。同期生に須山計一、矢橋六郎、山口薫、周譲吉らの諸君がおり、小磯良平氏は三年上級、佐藤敬、中村鉄氏は一年下級だった。

上野美術学校はさすがに美術の最高学府として設備もよく、トップ級の教授陣で、高知にいる時には考えられない芸術的雰囲気が濃厚であった。私は藤島教室(藤島武二氏指導)に入ったが、ここは規律がきびしくてアルバイトに出にくいということで、和田教室(和田英作氏指導)に移ったが、かえってきびしかった。だが、自炊をしている貧乏学生のわれわれが飯ごうを教室に持ち込んで、絵を描きながらストーブの上で飯を炊くというのんきな風景もあった。私はひたすらに絵を描いた。

学資は乏しかったが充実した画学生生活の私に、思いがけない暗いニュースがもたらされた。どうにか学資を送金してくれていた父が、醸造業上の貸し到れで倒産寸前となり、定期的学資送金の道が断たれたのである。