益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

破れ畳 破れ障子
貧困のなか次々受賞 わが道を行く(1)

はからずも上京の足を止めて神戸に住みつき、よき画境、よき画友にも恵まれて、異人館を描き続ける毎日は、両家として冥利(みょうり)に尽きることと言えたかもしれない。私は「兵庫県美術家連盟」にも加盟し、神戸画壇に活躍する多くの先輩・画友を得、いろいろと教えられ励まされることも多かった。

やがて兵庫県知事賞、大阪市展市長賞第一席等を受賞、画家としての地歩は徐々に固まっていった。しかし毎日絵は描いても売れることはまれで家族の生活は惨たんたるものであった。二人の子供を抱えながら、わずかな妻の内職金に支えられて暮らす明けくれは常識では考えられぬ非情なものだったと、今顧みて思うのである。だが生活の苦労は専ら妻が背負うべき運命にあった。当時のわが妻が詠める歌を紹介してわが生活の一端を語るに代えたい。

破れ畳破れ障子の家に住みて心おごれり画を描く日々は

ガス電気停められし夜はろうそくの暗き灯のもとに足袋をつくろう

絵具拭きにせよと給わりし浴衣着て子らと語れる夕涼みなりき

このような中にも子供たちは街の子としてたくましく成長していった。しかし生活苦のつらさは言葉で言いあらわされるようなものではない。かなり長期にわたったあの時期を、愚痴も言わずに暮らしてきたことが、むしろ不思議な思いがするのである。

このような時、工業学校時代の級友・平石武市氏の紹介により住友金属重役の河村龍夫氏の知遇を得て、物心両面の援助を受けられたことは、神の加護かと思われるほどありがたかつた。