益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

東京美校時代
バイトと友情 得難い青春の日々(1)

親父の家業が倒産寸前だというしらせは、大きなショックだったが、どんなことをしてでもがんばろうと腹を決めた。幸い、兄の学友の三木鶴久氏が丸ビルにある合同油脂・に勤めて居られ、この人の世話で週三回、午前中半日を合同油脂でアルバイトをすることになった。三木氏は高知商業出身で鈴木商店に入られたが、会社倒産のためその傍系会社合同油脂に勤められていたもの。まことに温厚篤実でよく人の世話をする、心の温かい人であった。後、台湾製糖に移られたが、病気のため四十代で早逝された、惜しい人である。

後年、私の妻となった三木ときは、彼の妹である。その後、私は千駄木町の長谷川工芸店主・長谷川敏氏を知る機会を得て、ここのアルバイトをした。その仕事は、リチャード・パーセルメスやハロルド・ロイド、バスター・キートン等の似顔人形―首から上は実物大、胴体は首と同じ大きさで、洋服を着せた人形だ。短い足の石膏(こう)像に、胡(ご)粉にポスターカラーで色を合わせて作り、一体塗ると十五円になる。当時としては非常に珍しく、なかなかボロい仕事だったが、そのうちラッカー塗りが出はじめて、たちまち十五円−十円−八円−五円−三円にまで値下がりして、二円のときやめてしまった。

その他首相官邸の天井画描きやポスター図案など、伝手(つて)を求めていろんな仕事をやったが、なかなか長くは続かず、生活は常に苦しかった。「小松君も、金さえあれば良い男だがねえー」という通り言葉は、すでにこのころから生まれていたものだ。私は下落合のアトリエ村に住み、忙しい中で近郊を描きはじめた。貧しかったが充実した画学生生活だった。

友人に佐藤敬、中村鉄、島公靖君らがいた。佐藤敬君は九州から母堂が付き添って来られ、至れり尽くせりの画生活で実にうらやましかった。後に新制作協会創立メンバーとなり、渡仏してパリに永住、終生新制作協会会員として八年前他界した。私との交友はこの時代から始まっている。中村鉄君は美校の一年後輩だが、後、神戸で家族のような交友の時期があり、国画会出品を経て後年画商として大成。これまた十数年前他界。島公靖君は舞台美術家として名を成したが、近況は知らず、生きていられたらぜひ会いたいと思う一人だ。いずれも美校卒業後はそれぞれの道を選んだが、当時は新しい芸術に向かってまことに意気さかんで、徹夜で画論を闘わすこともしばしばであった。私はフォービズムやシスレー、ユトリロ等に心をひかれ、また、スゴンザックの影響でパレットナイフで絵を描いた。