益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

東京美校時代
バイトと友情 得難い青春の日々(2)

世は昭和の時代となり、山東出兵、共産党弾圧事件等、騒然となる。昭和四年、私は先輩大月源二君に勧められて、日本プロレタリア美術家同盟に加盟する。「フォイエルバッハ論」や「国家と革命」など、伏せ字の多い本をむさぼるように読み、急速にマルクス主義に傾倒していった。新しい時代を夢み、芸術と社会変革の統一を考え、わくわくする。このころ、病母を抱え看病をしながら働いている三木ときをしばしば訪問、マルクス主義を語り、未来を夢みて交友を深め、やがて結婚することとなる。

プロ美術家同盟では、浅野孟府、岡本唐貴、内田巌、大月源二らの先輩をはじめ、須山計一、松山文堆、中島正雄ら、画家の外にも島崎翁助、久板栄二郎ら、情熱に燃えた多くの友人を得、得難い青春の一時期であった。同盟機関紙「新美術」を発刊して、私も「美意識の変化」なる論文を書き、また、まだ世に知られていなかったメキシコの革命画家・ディゴーリベラの紹介を載せた。いつか共産党に接触するようになり、昭和五年二月、中央幹部T氏をかくまったことがばれて、渋谷署に留置された。拘留30日。寒い時だった。地下室の留置場の寒さは身にこたえた。

何よりも、卒業を前にしての拘留で、卒業制作を提出できないことが惜しかった。放免によって帰ってきた時、私の卒業制作は学友・木下幹一君の手によって提出されていることを知った。この時のありがたったことは未だに忘れることができない。木下君は時の関東長官・木下謙次郎氏の長男で、麻生福吉町に大きな邸宅があり、共産党とは全然立場を異にする人であったが、友情不変。後日私が記憶喪失になって郷里へ帰ることになった際にも、物心両面、至れり尽くせりの世話になった。生涯忘れることのできない人である。かくして私は無事美校を卒業し、その年の秋、下落合風景「雨の止んだ時の風景」(六号P)が二科展に入選することになる。