益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「神戸平和美術展」
妻も多彩に“わが道をゆく”(2)

一九五八年、私は兵庫県文化賞を受賞。ぼつぼつ絵も売れ出して生活はやや安定し、なんとか子供たちの学資に追われないようになった。私の周辺にもさまざまな人と生活の交流が増え、忙しい日々となった。

そのころ、一九六〇年、当時の岸首相の施策・安保条約改定に抗し、澎湃(ほうはい)として起こる安保闘争の渦は、わが神戸にも大きな統一行動を広げた。私は一人の人間として「声なき声の会」(文化人、知識人、芸術家等多数参加)の隊列に伍(ご)して、画家として平和と民主主義を守るために、今なにができるかを考えさせられたのである。

安保闘争は当初の目的を果たし得なかったが、日本史上画期的な大運動として、各分野にさまざまの教訓を残して終わった。私にとっても、平和運動とわが画業の統一は、今後の重要な課題となった。

すでに一九五二年、朝鮮戦争のさなか、東京、大阪では、創作の自由、美術発展のためには平和を守らねばならぬという決意から、平和を願う美術家が結集し、平和美術展が開催されていた。兵庫県でも、一九六五年八月「ベトナム支援・第一回神戸平和美術展」が開かれていた。しかし情勢は、一部の平和愛好家の美術展に終わらせるのでなく、各会派・各流を超えて、核戦争に反対し平和への願望を持つ広範な美術家の結集を急務としていた。平和美術展が「平和こそ創造活動の基盤である」とする基本精神は言うまでもないが、ますます危険な反動政治に立ち向かうには、今こそ国民各層のあらゆる力を結集し、反戦・平和の力を大きく培わねばならぬ時である。そのために平和美術展を大きく…の声が盛り上がり、神戸平和美術展を兵庫県全体の美術展にとの方針のもとに、一九六八年、兵庫県平和美術家協会が結成され、はからずも私は会長に推された。会はささやかな出発ではあったが、その意義と任務は大きい。県民会館で各層の美術愛好家の力を集めて第一回展が開かれたとき、私は現代に生きる画家としての使命をしみじみと感得したのである。

以来、平和美術展は毎年夏の行事の一つのように開催され、本年第二十周年を迎える。その広がりはまだまだ不十分ながら、私の画業も、県下の平和勢力の一翼に一定の座を占めたものとしての感慨は大きい