益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

画家への再出発
あなたはやっぱり絵かき…と妻(2)

父の援助で、生まれてはじめての画会を作った。ぼつぼつと絵を描き売りながら、私は高知の画家仲間と「高知洋画研究所」を作り、多くの画友を得て、画生活に励んだ。島村治文、信清誠一、大野竜夫、森田早稲、正延正俊、宮地孝、島内一夫君らとの交友は、私の生涯を通じて忘れ難いものであり、私の画家としての再出発を確かなものにした。私の高知時代は豊かで思い出深いものとして、現代にも続いている。しかし、信清、大野、森田の諸君は今や既に幽明を異にし、年長の私が生き残っているとは感慨に堪えない。正延、宮地の両君は現在も健在、しかもわが兵庫県画壇に活躍されているとはありがたいことだ。

高知ではまた、いろいろな絵に出合ってありがたかった。優秀な絵の理解者・上田紫朗氏が手結(てい)の近くに住んでおられた。小杉放庵氏を高知に招き、高さ十センチ、横四十センチくらいの十二枚続きの大きな画帖(ちょう)に土佐風景を描いてもらい、とても見事だった。その中に「遍路黄昏」という、お遍路さんが歩いて行く姿を描き、その右側に樹木を放庵独特の描写で描いたものを見た時の感動は、今なお忘れられない。また「土佐紀行」の見事さも、まだ瞼(まぶた)に残っている。伊野部恒吉氏所蔵の放庵の絵も素晴らしかった。以来私は放庵の大ファンだ。私はこれらの絵をどんよくに見て回った。このような見事な絵画が見られたことは、高知において絵画鑑賞力を養う上で、最大の糧だった。

こうした間にも、私は黒のポプラインクを入れた万年筆で、独特の秘法で多くの絵を描いた。毎日自転車を乗り回し、高知の民家を描きまくった。詩情のある、われながら愛着の深いそれらの絵は、後年防空壕(ごう)の中でボロボロに腐ってしまって、一牧も残っていない。残念である。私の画家としての生活はいよいよ固まって来た。次第に高知の画家仲間との交友も深まり、私の画生活は充実した。しかし、この一年間、わずかの収入でどうやって生活したかは思い出せない。思えば不思議な時期であった。

しかし、生活が定着して来るに従い、次第に高知での画生活に空虚感を抱くようになる。画家として生きることはやはり闘いだ、と、かみしめる思いで、私は再度冒険ともいうべき上京を決意したのである。