益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

忘れえぬ人々
美校の先輩、家族づきあいの友(2)

当時神戸にはこの大塚画廊だけしかなく、その後も度々ここで個展をやって、ここを拠点に、神戸における画家としての地歩を固めていったようなものだ。ここは絵の展覧会場としてばかりではなく、画家のたまり場みたいになって、ここへ行けば必ずだれかに会えるという楽しみがあった。画家同士だけでなく、家族ぐるみの社交場みたいな温かい雰囲気があり、よく妻や子供づれで行ったものだ。いつもにこにこしていた大塚氏の微笑が目に浮かんで来るようだ。その大塚氏も戦後はかなく病没され、鯉川筋画廊も消えてしまった。

小磯氏のアトリエに一緒に出入りしていた中村鐡君も、神戸に住みはじめた最初の友人として忘れることのできない人である。小磯アトリエの仲間であるばかりでなく、自宅がすぐ近所で、家族ぐるみの交際だった。彼は美校の一年後輩で、国画会出品者だったが、夫人・八島喜代子さんは当時としては珍しい二科展出品の閨秀(けいしゅう)画家だった。

夫妻そろっての画家生活はうらやましいものがあったが、その生活は貧乏絵描きの名に違わず、私の家とは小銭の貸し借りから、みそ、しょうゆの貸し借り、時には「今お客さまなのよ、お茶一つまみ貸してよ」と台所へ夫人が駆け込んで来るという、家族同然の交際だった。私の長男が誕生の時には、長く留守をしていた私に代わって名付け親になってくれたものである。

いずれ劣らぬ貧乏絵描きで、六甲の貧乏画家の三羽ガラスと言われた仲だったが、その窮乏生活にいささかの暗さもなく、徹夜で画論をたたかわす彼の目は、いつも静かに燃えていた。貧乏を平然としのいでいく、今から思えばむしろロマンチックな思い出いっぱいの日々だったが、芸術家といえども金が無くては生活できず、結局夫人は二科展出品をやめて鐵氏の制作に力を集中することになった。とても素質の良い人で、返す返すも残念だった。後年、中村鐡氏はその優れた鑑識眼から銀座・中林(ちゅうりん)画廊を経営する一級の画商として大成されたが、十年余り前に他界された。

帝都に二・二六事件のニュースを聞いて、がく然としたのも、このころのことである。