益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「顔なしデッサン」などの疎開秘話。…。

「顔なしデッサン」だけではない。このいわく付きデッサンをはじめ、ぼう大な数の小磯さんの素描・版画・水彩画類及び小磯さんの愛蔵画集類が、山本通アトリエが戦災壊滅したにもかかわらず戦後にもたらされたのは、二人の画家の大奮闘のお蔭である。

そのときの彼らは、まだ画壇の一員ではないから、画家の卵というべきかも知れない。一人が前出の桝井一夫さん、いま一人が西村元三朗さん(後新制作協会)である。

西村元三朗さんは、軍隊を負傷除隊になった昭和16(1941)年、24歳で日大美術科へ入学して画家修業をはじめたという、これも変わり種の絵描きさんである。ところが、昭和18(1943)年10月、『教育に関する戦時非常措置方策』という閣議決定が出されて、「理工系・教員養成系以外の学生の徴兵猶予の停止、文科系大学の理科系転換、年間三分の一の勤労動員…」ということになり、さいわい傷痍(しょうい)軍人ということで学徒出陣はまぬかれたものの、学校がなくなっては絵の勉強を続けることができず、止むなく西村さんは出身地神戸へ舞い戻って来る。

この画業半ばの青年を気の毒に思い、「弟子を取らない主義」を曲げて、西村さんを生涯唯一の弟子とされたのが小磯良平さんであった。たまたま、その前年に松岡寛一さんが応召、この年の夏には小松益喜さんが奈良県室生寺に疎開。小磯さんの身の回りの世話をする人が、桝井さんただ一人になったので、小磯家「用人」を兼ねての弟子入りである。