小松益喜を語る

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第6回 根底に流れる旧国人気質

「小磯洋風絵画」を育んだ三田藩の血

小磯良平さんの洋風人物絵画の誕生を促した歴史的背景として、どうしても欠くことのできないのが、三田藩=九鬼氏の存在である。(「三田九鬼藩の遺産と現代」については本誌228号(平成13年10月刊)特集参照)。

戦国時代から江戸時代を経て近代に至る300年間、三田藩=九鬼氏があこがれ求め続けた、「海外雄飛」への渇望というのは、司馬遼太郎的表現に従えば、ひたすらに燃やし続けた執念の炎にも似て、それは俗世間の想像をはるかに絶するものだったからである。

ついでながら、司馬遼太郎『街道をゆく』が、篠山街道から三田に至りながら、関ケ原の戦功により九州に移封された三田藩前任者=有馬氏の事跡にのみ触れて、九鬼氏を一顧だにしていないのは、大いなる片手落ちと言わなければなるまい。

小磯さんの、他に類例をみない、「純国産近代洋風絵画」とでもいうべき、その独自の画風の原点が、三田藩=九鬼氏にある。

小磯さんの生家である岸上(きしのうえ)家や養家の小磯家が仕えた、旧三田藩主=九鬼氏は、戦国戦乱の世に「志摩水軍」として勇名をはせる。とりわけ九鬼氏が、その名を天下に知らしめるのは、十年にわたる石山本願寺(後の大坂城)の反抗に手を焼いた織田信長を、わが国史上初の鉄張り船をもって支援し、本願寺勢が助力を頼んだ毛利「村上水軍」を木津川口に撃破したときである。 ときに天正六(1578)年11月のことであった。