小松益喜を語る

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「小磯洋風絵画」を育んだ三田藩の血

この戦勝によって、その後の九鬼氏は、織田〜豊臣恩顧の大名として、慶長五(1600)年九月の関ケ原の戦いにおいても西軍側に付く(分家は東軍側)ことになるが、このことが結果として、二百数十年の忍従を、この家に強いることになる。

徳川時代に至って、関ケ原の戦いに西軍に味方した九鬼守隆の嗣子=久隆に対し、摂津三田への移封が命じられる。家光の時代、寛永十(1633)年3月のことであった。志摩五万石から三田三万五千右への減封もさることながら、三田は四方を山の盆地帯である。

つまり、水軍を「陸(おか)に上がったカッパ」にすることで、その恐るべき海軍力を発揮できなくしたのである。またこの措置は、幕府が、同年2月からの、幕府奉書船以外の海外渡航禁止令・海外渡航者の帰還禁止令、つまり「鎖国」を徹底するために、海外向け造船技術を有する水軍を、海辺から遠ざける必要に迫られてのことでもあったと思われる。

しかも、九鬼氏の潜在的軍事力をひたすら恐れた幕府は、この藩には「城」を許さず、「陣屋」大名、つまり城持ち藩主よりも格下の屈辱を与えている。この国替えのとき、東軍に組した分家の隆季も、丹波綾部の山間に封じられるが、二万石ながら城持ちを許されたのは、摂州三田を見せしめ的差別で辱めるため、というしかない。

三田藩士たちは、この屈辱に対して、巨大な堰堤(えんてい)を陣屋と士族屋敷との境の谷間に構築、ここに天神川の水を貯め、巨大人工池を現出させることをもって応じる。これが今も、三田小学校(旧陣屋跡地)の校庭南側に残る、その名も「大池」である。