益喜を語る

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第2回 天才画家と純真無垢の画家

「五〇人展落選事件」に関わって

社教芸文時代の思い出に、神戸新聞社と共催して実施した、『兵庫の美術−五〇人展』がある。まだ、兵庫近美は影も形もない、昭和三十年代の始め頃(一九五五〜六)で、わが畏友=増田洋(ひろみ)さんは、当時はまだ文理学部といった神戸大学を卒業したばかり、久留米の石橋美術館の新米学芸員であったか。そんな頃の、お話である。

『五〇人展』の出展者選考委員はたしか、新井完さん、小磯良平さん、吉原治良さん、須田剋太さんたち洋画家、水越小南さん、寺島紫明さんといった日本画家、彫刻の新谷秀雄さんという、作家たちに、当初は神戸新聞A学芸部長を加えた、六、七人の方々であった。その後ほどなく新聞社側委員は、戦後しばらく神戸にあった夕刊専門紙「神港新聞」から転じて来られた、学芸記者の伊藤誠さんになる。

その第三回展の選考委員会でだったか、前二回が同じ顔ぶれだったこともあって、「何人かの画家を入れ替えてはどうか」という話になった。たまたま、その数年前の昭和29(1954)年に、毎日新聞社主催の第一回現代日本美術展(翌年から偶数年の国際美術展と交互開催で「毎日ビェンナーレ=隔年展」と称した)というのが開催されたのだが、『五〇人展』出展者のうち、小磯さんはじめごく少数の方は招待されたが、大半の兵庫県出身画家には招待が来なかったことから、これがちょっとした「事件」となった。