小松益喜を語る

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第8回 「反戦平和・自由」への希求(下)

「戦争画はボクの作品とは認められぬ」

壊されゆく「異人館にイノチをかける」小松益喜さんは「野人」ではあるが、生来「階級闘争」(竜馬になぞらえるなら「政治闘争」)には不向きの方であった。その左翼運動のよって来るところも、あくまでも芸術家としてのロマン、「反戦平和・自由」への希求であった。

増田洋さんが、小松益喜さんと比肩するに坂本竜馬を持ち出すのも、お互いの事業の起点が「神戸」であるという以外に、竜馬の思想の根底にある「政治闘争」を忌避する「民」の気風、なかでも、「反戦平和・自由」へのロマンティシズムという点に着目してのことである。

公家の岩倉、三条、薩摩の西郷、大久保、長州の木戸、伊藤、肥前の大隈ら、維新の中心人物のすべてが、権力奪取を武力一辺倒としていたときに、ギリギリの所まで平和革命を追求し、革命成功の暁にはその権力の中にあることをすら忌み嫌った志士、それが土佐の坂本竜馬ただ一人であったことは、今日近代史家の手によって明らかにされつつある。

慶応二(1866)年6月、竜馬が江戸へ向かう船中で後藤象二郎あてにしたためた、いわゆる『船中ノ八策』は、あきらかに立憲公議政体とでもいうべき新政権構想の上申であり、武力倒幕という流血を避けるための平和革命路線の提唱であった。この上申が、徳川慶喜の「大政奉還」を促したことは、明白である。