益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

第3回 運動挫折と「異人館」との出会い

「左翼運動の後遺症」をかかえて

小松益喜さんの六甲アトリエには、その完成直後の頃から、よく遊びに行った。

昭和20年代の半ば過ぎ(1951年頃)、私は神戸大学経済学部第二課程つまり夜間の学生であったが、その当時の小松さんのアトリエは、神大や外大の左翼学生たちの溜り場の感を呈していたものである。あたかもそこは、後に小松益喜さんからうかがった、小松さんのほか、中村鐵、松岡寛一、中川郷一郎、中川力、桝井一夫、後から西村元三朗などが、好き勝手に上がり込んできて、そこを「基地」に絵を描いていた、山本通の小磯アトリエを彷彿とさせるものがあった。ただ、とんでもない違いは、たむろしていたのが、画家の卵でなくて、左翼学生たちだったという点であろう。

なんでも、小松益喜さんが昼間は写生三昧(ざんまい)で留守がちなのをさいわいに、神戸大学六甲台三学部(経済・経営・法)昼間学生自治会の数人が、「梁山泊(りょうざんぱく)」=小説 『水滸伝』にある英雄豪傑の溜り場=を決め込んだのが始まりだという。これらの学生たちを取り仕切っておられたのが、奥さんのトキさんであった。
 小松トキさんも、かつての左翼運動の女性闘士で、戦後は共産党県委員や母親運動に挺身された方であった。トキさんからは、戦前の、佐多稲子さんや壷井栄さん、沢村貞子さんたちのお話をよくうかがったものだが、とにかく物すごい体験をお持ちの方という印象が強い。