益喜を語る

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廣田生馬 和田青篁 父を想う

「植民地風西洋館のあり方」を知る

前章に紹介したような奇行奇弁が災いしてか、私が小松益喜さんと付き合いを深めていた当時の、画家仲間や美術ジャーナリストたちの彼の人の人物評価は、正直なところあまりかんばしいものとは言えない。

とくに、画壇の一部にも(全部ではない)、他の社会と同様に、競争相手の欠点を見付けると、「それっ」とばかり、悪評を針小棒大に吹聴して回って、相手を蹴落とすという、芸術家としてその風上にも置けぬ輩がいる。それにまた、美術ジャーナリストの一部(全部ではない)が同調するから、純真な小松さんの、あの奇行奇弁が、絶好の噂の餌食となってしまうのは、気の毒このうえないことであった。

小松さんの欠陥をあげつらった、あの画家、あの記者、あの評論家、十指にあまるそれらの人たちの顔を思い浮かべながら、「やはりこのことだけは明らかにしておかねばならぬ」という、切なる思いから、前章を書き記したのである。

その点、小磯良平さんからは、きびしい絵画評は聞いても、小松さんの日常の言動に対する悪口を、爪の先ほども聞いたことがない。戦中戦後その側近にいらした桝井一夫さんが、「小磯さんは、『反戦平和』の小松さんの立場を擁護されることはあっても、あの人の一風変わった振る舞い(たとえば『娘子関を征く』完成パーティでの乱行)に対しては絶対悪口を言わんかった人」とおっしゃるのは、私もまったく同感である。

小磯さんの小松人物評と言えるのは、『小松益喜画集−神戸の異人館』(昭和51年・神戸新聞出版センター刊)冒頭の、「小松君の自転車」くらいのものであろう。