益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「左翼運動の後遺症」をかかえて

一九三二年一月上海事変勃発。高知四十四連隊からも中支に向けて出兵という事態を目前にして、侵略戦争反対と、反戦同盟の青年たちの果敢な行動が開始される。私は病後のこととてニュースやビラにカット画を措く程度のことしかしなかったが、志は一つだ。

治安維持法違反容疑者一斉検挙の手を逃れることはできなかった。県下五十余名の被検挙者の一人として妻と共に捕らえられ、須崎署(高知市の約十里西)へ送られることとなった。1932年4月の事である。

以上【『わが心の自叙伝』<4>から】

一切の自由を奪われ、社会から遮断された一か年近くの未決生活から、野市(のいち)の父母の家へ帰った時、私は、私の周辺の事情の大きな変化を凝視(みつめ)ざるを得なかった。左翼運動弾圧の手はいよいよ厳しく、共に活動した仲間はちりぢりばらばら。連絡のとりようもなかった。…。

以上【『わが心の自叙伝』<5>から】

『没後10年小磯良平展図録』・KN記=小松益喜『英三番館』等解説の、「この(絵の)印象と小松自身の左翼運動からの帰還を結びつけるのは…。」という、ただの一行に込められたものは、かほどにも重いものなのである。