小松益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

閑話休題。

実業の面では、というよりも旧三田藩士たちは、この「海外雄飛」のための事業を起こすべく、神戸へ出てきたのであったが、「医学西洋並びにキカイ所」志摩三商会と「北海道開発社」赤心社という、二つの会社を設立する。

志摩三商会の社名には、往古の封地=志摩と最後の封地=三田とを組合わせることによって、徳川二百数十年の旧三田藩歴代の情念が込められている。赤心社は、北海道浦河郡浦河町荻伏(おぎふし)の地に、戦後も昭和末年頃まで存在した最古の北海道開発会社である。その名には、新天地の開発に旧藩士の真心を捧げるという意味と、一説には、アメリカ伝道会キリスト教のピューリタン精神が込められている、ともいわれている。いずれにしても、維新によせる旧三田藩士の心意気が感じられ、味わい深い名称と言えよう。

その、志摩三商会の社長=九鬼隆義の秘書役が、小磯さんの祖父岸上角次であった。また父文吉は外国商館の社員として、九鬼グループの一員をなしていた。彼らはまた、養家の小磯氏などとともに、神戸組合教会(現日本基督教団神戸教会)の会員として、敬けんなキリスト教信者の家庭を形成していた。そのような、旧三田藩士特有の「西洋風」の家庭や、外国商館など周辺の「西洋文化」の環境の中で、小磯さんはその幼少期を過ごされるのである。

【昭和61(1986)年1月・兵庫県立近代美術館『小磯良平展』図録=増田洋「小磯良平略伝」から】

小磯絵画の根底にある、彼の人の思想を形成した「西洋風」は、同時代の洋画家たちが何年かのパリ遊学から持ち帰った、他国からの借り物ではない。小磯さんの青年期のヨーロッパ遊学は二年足らずであるが、その思想の根底に流れる「西洋文化」(「キリスト教精神」と言ってもいい)は、旧三田藩主=九鬼氏から三百年の風雪に耐えて受継がれ、彼の人の血肉となった・純国産・のものだ、と私は信じて疑わない。

小磯さんの生い立ちを通じ、彼の人をもっともよく知り尽くしている、竹中郁さんをして、「日本人一般が味噌くささを意識せずにもっているのとまったく同じように(小磯は)バターくささをもっている」と、言わしめる所以(ゆえん)である。

なお、養家=小磯家が、三田藩歴代藩主に仕えた薬師の家柄であったことが、後に、小磯絵画の最大の理解者であり、彼の人の画業の最大の後援者ともなる、武田薬品工業M社長=武田長兵衛氏との出会いを生むのは、奇すしき縁(えにし)というほかあるまい。