益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「顔なしデッサン」などの疎開秘話。…。

しかし、西村さんが小磯アトリエにやって来て一年もたたないうちに、米軍の本土空襲が始まった。そして、昭和20(1945)年3月17日未明、第一次神戸大空襲を迎えるのである。が、このときは、南北は北野山本通から旧居留地海岸通までが無事で、県庁本館は焼失したが、東西は元町−三宮間の神戸中心部が、ともかくも奇跡的に焼け残る。

 桝井さんと西村さんは、近くまで焼かれながら、わが家の無事を確認すると、小磯アトリエの安否を気遣い、飛んで行ったという。

以下は、この日以来、二人の画家の卵の大奮闘を物語る、桝井さんの証言である。


とにかく小磯さんいう方は、ああいう火事場に臨んでも、「キミ、なるようにしかならんよ。」と、おっとり構えておられる。絵以外の仕事は、何も出来ん人ですわ。…。

「次の大空襲で、この辺やられまっせ。早う大事なもん、センセ疎開させんと…。」

さあそれから毎日毎日、小磯さんをせっついて、裏六甲の、当時は武庫郡山田町下谷上(しもたにがみ)というたですか、やっとこさそこへ、農家の土蔵を借りてもろたんです。

さて、そこへ、どんな品物を疎開させるのか。当時はトラックなんかみな軍用に徴用されとおし、たまにあっても木炭ガス車やから、天王谷(当時は六甲越えを除きこの谷筋のほかに裏六甲へ出るルートはない)の急坂をよう登りきらんのですわ。頼りは大八車一台だけで、これにどれだけの品物を載せるか。その、品定めだけは小磯さんにお願いせんならんですが、このミコシがなかなか上がらいでねぇ。