益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

「顔なしデッサン」などの疎開秘話。…。

一カ月以上もかかって、ようようデッサンと水彩画や版画類、それに小磯さんが大事にしとったった、フェルメール、マネやドガやらの画集やなんか、疎開の品が決まったんですわ。それらをどっさり、大八車に山積みして、「西村君キミ、年若いんやから前引け。ボク後押しするから…」言うて、さあそれが、いきなり山本通までのわずかな坂道を、よう登りきらん。もっともあのアトリエから屋敷の玄関までが急なんですが、近所の人にも手伝うてもろうて、やっとこさ押上げたんやけどね。あれが五月の、端午(たんご)の節句時分でしたかなぁ。朝の八時頃に、小磯家を出発したのを、よう覚えてます。

それから、山本通から再度筋を通って祇園(ぎおん)の馬場先道を斜めに、5キロ足らずの道のりを、平野(ひらの)の祇園さんの石段下へ出たんやが、そっから先は「聞くも涙の物語」ちゅうヤツですわ。…。

あの方面に土地カンある人やったらご存じのとおり、天王谷から鈴蘭台へ抜ける道は、多少勾配のゆるいとこはあっても、小部(おおぶ)峠まで十キロ以上も坂また坂ですわな。

で、とうとう車引いてる西村君の手のマメが破けて、カジ棒まで血まみれになった。西村君いうのは、知っとってのとおり、実におとなしい、我慢を絵にしたような男ですやろ。ここまでの坂道、ただ黙々と車引いてるもんやから、「ちょっと、休憩しょうや」と、前へ回って彼の血まみれの手見て、ボクもうびっくり仰天…。西村君は、「ここで止まったら、このままズルズル後もどりしてしまいそう…」言うんで、ともかく小部(おおぶ)峠のテッペンまで車引っばり上げて、やっとこさ一服したんです。