登喜の意欲を引き出したもの
父は「僕は絵かきなのだ」といって制作に没頭する。だから、家族の生活費とかそういうものについてはどんなに逼(ひっ)迫していても、「ないものはしょうがない」といって登喜に対処を押し付けてきた面がある。そうした中で、戦中・戦後の困難な時期に、特高に監視されるような環境で、4人の子どもを産み育てたのだから、登喜の苦労は大変なものだったろう。「よくやってこられたものだと思う。」と、登喜はふりかえって口にする。
登喜は、益喜の画生活を支える意欲を、どうして持ちつづけることができたのだろうか?
あるお金持ちの人が益喜の絵を買いたいといってきた。制作に少しでも時間を使ってほしいと願った登喜が絵を運ぶ役を受け持った。自分の身体より大きな益喜の作品を抱えて、そのお屋敷を訪ねた。玄関から建物までもずいぶん距離がある。その玄関から訪ねると、「ウラに廻れ」と家人にいわれ、また長い距離を歩いて裏口から入いった。そうして、主人に絵を見せた。絵を見た主人は「このような立派な絵を描く方に大変失礼なことをしました」と深く詫びたという。益喜の作品自身の力によって生まれる、こうした日常の営みが、益喜の画生活を支える登喜の意欲を引き出すこともあった。
何よりも登喜は益喜の絵が好きだった。そして益喜が人を裏切らない正直な人であったということが、支える気持ちを持ちつづけられた最大の要因だったと、晩年の登喜は語る。
登喜の支えがあったからこその益喜であったが、同時に小松益喜であったからこそ、登喜は支えつづけることができたということもまた事実であった。