やはり、人としての道を
父のことを酒好きと思っている人も多いし、ある限られた一時期には毎晩のように酒に酔って帰宅したこともあった。が、父が本当に好きなのは酒そのものより、酒を飲みながら人と語り合うことであったと思う。だから客が来ない日に父が一人で酒を飲むということは決してなかった。しかし客が来ると、用件も程ほどに、いそいそと酒をついで歓談した。
父の声は非常に大きく良くとおる声だった。
妹尾河童著の「少年H」(講談社)に次のような場面が出てくる。――画家・奥村隼人が経営する「フェニックス工房」で働くことを小磯良平に勧められた少年Hが、面接の三日前に、内緒で工房の下見にやってきたときの場面である。
Hがひきかえそうとしたとき、そこのドアが開いてベレー帽をかぶった人が出てきた。
小松益喜さんだった。「なんやセノオ君やないか!」と声をかけられてしまった。小松さんとは芦屋の伊藤継郎さんのアトリエで会っていたからよく知っていた。Hはバレたので仕方なく、「こんにちは」と頭をさげた。小松さんは大声で、
「君、ここへ来るんだってね。小磯さんからも聞いていたし、いまさっき奥村クンからも聞いたとこや。ちょうどいい、ぼくからも紹介してやろう」といった。
「でも、ほんまは六日に来るようにいわれていたから、また改めて来ます」とためらうと、
「かまわん、かまわん早いほうがええ」と、先にたってドアを開けた。板張りの部屋の中のあちこちにペンキの缶があり、その真ん中で無精髭を生やした人が、看板に果物の絵を描いていた。その人が奥村隼人さんであることがすぐにわかった。奥村さんは二人を迎えながら白い歯を見せてニヤニヤ笑っていた。
「紹介しよう、セノオ君だ」と小松さんがいうと、「大きな声で話してたから入ってくる前から分かってたよ」と奥村さんはおかしがった。
父の声がなぜ大きいのか、“諸説”があるが、若い頃、剣道を、相当の使い手になるほど熱心にやったこと、戦時中、室生寺で生活していたので駅から寺までの数キロの真っ暗闇の夜道を大声で万葉歌集を詠いながら歩いたことのためだと思われている。
私が高校生だったころだから、戦後15年くらいたっていた。神戸の自宅は、20畳ばかりのアトリエがあり、その半分くらいは吹き抜けで直接屋根につながっていて天窓があったが、後の半分は二階部分があった。その二階が子ども部屋で、私の部屋もそこにあった。
客のことばは聞き取れないが、父の声は二階にも聞こえる。その話題は本当に幅広いものだったが、ある日聞こえてきた会話に次のようなことばがあった。「戦争に駆り出されて多くの人が死んだ。戦争で殺されるか、戦争に反対して殺されるか、その選択が迫られたとき、君はどうする……」「僕はやはり殺されても戦争反対を貫きたいね……」
妙に印象に残って、今でも覚えていることばなのだが、いま思えば、PTSDが出るほど特高警察に痛めつけられても、やはり自分は人としての道を歩みたいという父の決意の吐露と思える。