益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父、小松益喜を想う

人を分けへだてしない

私がまだ小学校に入る前のことだったが、わが家で日曜日に絵画教室をやっていた。

奈良県室生寺での疎開から帰ってきた当時の神戸の家は、二階部分だけの6畳と4畳半と炊事場だけだった。その六畳の部屋の片側は木製のリンゴ箱が天井まで積まれていて、そこにスケッチ画や画材がぎっしり詰まっていた。もう片側の壁はイーゼルもあったし、絵の具のついたパレットもあった。

そんな狭い部屋だったから、教室の子どもたちは机にへばりつくようにして静物画を描いていた。生徒たちは描いた絵を提出して帰るのだが、父は次の週までに、その1枚1枚についてていねいに批評や改善点などを紙に書いて張りつけて、返すのである。それも、墨をすって筆で書くのである。

“目の高さ”がどうのこうのと難しいことばもたくさんあった。そのやり方はその後もずーっと続いた。父は相手が子どもであっても、あるいは“絵の素人”と思われる人にたいしても、分けへだてすることなく自分の見解を率直に言う人だった。この“人を分けへだてしない”というのは父の人生と絵画全体に通じる特質であったのではないかと思う。

ある路地をスケッチしていたとき、その家の住人が絵を見て、「この道が、こんなに立派に見えるなんて」とびっくりして声をかける。父は「そこが写真と絵の違うところだよ。あなたも自分が住んでいる街をよく見なきゃー。」と応える。そして会話になっていく。

絵を描いているまわりで遊んでいる子どもたちに、ポケットにある飴を分け合って一緒に食べながら絵を描く。絵を描くことに喜びを感じているだけでなくそこに住んでいる人たちといっしょに楽しんでいる姿も多く目にした。

父は戦前から、戦争反対、主権在民という政治的立場をはっきり持って生きた人だが、その原点に“人を分けへだてしない”、という思想があったのではないかと、晩年の父と一緒に暮らして、思うようになった。

戦前、芸大(現在の)卒業後、非合法下の政治新聞の発行に携わったときの苦労話を私は何回か聞いた。少しずつ美濃紙を買い求め、音がしないように原稿をガリ版にし、印刷し、3日をあけず印刷場所を移動していく。そういうなかで描く挿絵やカットに父は全精力を傾けた。政治的扇動の効果のみでなく、それを見る人たちに最高の絵を見せよう努力した。それは政治的な情熱とともに、分けへだてることなくすべての読者に絵を届けたいという父のもつ“思想”がその情熱を生んでいたと思える。

2005年2月 小松伸哉
生命活動が燃え尽きるまで
人を分けへだてしない
よいものは良い、悪いものは悪い
父の“ 記憶力 ”
絵の“品”と教養
異人館の美しさ
日本脳炎とPTSD
父の人生が今の時代にといかけるもの
やはり、人としての道を
父への助言者
登喜の意欲を引き出したもの
一途の人