益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父、小松益喜を想う

日本脳炎とPTSD
(心的外傷後ストレス精神障害)

豊かな精神活動のあった父・小松益喜であったが、それは平坦なものでなく、若い時代に大きな打撃をうけ、後遺症を持ちながらつらぬかれ、積み重ねられていった豊かさであった。

若い時代の父の精神活動に打撃を与えた二つの病・後遺症があった。一つは、重症の日本脳炎後遺症、もう一つはPTSD(トラウマ)=心的外傷後ストレス精神障害であった。

1920年代、“戦争反対”や“天皇主権でなく国民主権の政治を”と求めた日本共産党は、それゆえに当時の天皇制権力により非合法化されたが、その主張と活動をやめることはなかった。

20歳代の父は、自らの理論探求と思考の帰結としてこの運動に協力し、参加していった。当時の日本共産党の機関紙「赤旗」(せっき)の制作・印刷にもかかわっていったので、それは厳しく、情熱を傾ける仕事だった。そうしたさなかに、日本脳炎ウィルスに感染し、発症した。過労があったことも事実であるが、当時、日本で大流行していた病気であった(注1)

高熱、意識混濁、激しい下痢で衣類も汚れるなど異常に気づいた関係者は、“身元がわからないように入院させる”という非合法下での難しい課題を克服して、入院を実現させた。同じく非合法の労働組合関係の活動をしていた登喜が連絡を受け病院に行った頃は、発病からすでに十数日たっており、昏睡から覚め、熱も下がって、退院できる状況になっていた。が、「レーニンが…」というようなうわごとを話すので、はらはらしどうしだったという。

郷里・高知に帰り、絵画をはじめたことをきっかけに記憶を取り戻し、判断力を持つようになるのであるが、「一時の重い症状を思えば、奇跡のような回復だった」と、登喜は語る。

2005年2月 小松伸哉
生命活動が燃え尽きるまで
人を分けへだてしない
よいものは良い、悪いものは悪い
父の“ 記憶力 ”
絵の“品”と教養
異人館の美しさ
日本脳炎とPTSD
父の人生が今の時代にといかけるもの
やはり、人としての道を
父への助言者
登喜の意欲を引き出したもの
一途の人

(注1)

インターネットには日本脳炎について次のような記載が出ている。

「日本脳炎ウィルスが原因で起こる。日本脳炎のウィルスは脳細胞で増殖するため、さまざまな脳症状が現れてきます。」

「突然の発熱と頭痛から始まり、時間の経過に伴って体温が上がり、40℃前後になります。発症して3日目ごろから意識障害が現れ始めることが多く、うわごとを言ったり、興奮しやすくなるといった特有の症状を示すようになります。6日目ごろになると次第に熱が下がり始め、10〜14日くらいで回復します。一般に、高熱が続くと重症化する危険が高く……後遺症を残すケースがあります。」「頭痛、発熱により発症する。時に食欲不振、嘔吐や腹痛、下痢などの消化器症状を初発症状とする例もある。感染が進行するとさらに高熱(39〜40。C)となり、さらに重症例では意識障害、痙攣、昏睡がみられるようになり、ついには死に至る。」

「一般的に日本脳炎患者の約1/3は死亡するといわれているが、致死率は患者の管理により異なり20〜50%である。また死亡を免れた場合でも、半数近くは重篤な後遺症を残す。」

「日本脳炎は第二次世界大戦後に、日本で大流行しました。」

病気の原因について父は深く追求したことが無いようで、「過労のため」などと言ったことが多かった。「脳炎」であることは入院時の医者が説明していたが、登喜は「日本脳炎」と「嗜眠性脳炎」の病名を区別せず人に語ってきたこともあるようである。