父への助言者
日本脳炎の後遺症を父本人がどのように自覚していたかはわからない。が、病気と事後の経過から見て相当大きなダメージを受けたことは間違いない。
神戸で小松益喜と登喜に接したすべての人は、登喜はしっかりしていて益喜は世事に頓着しない人と映っていたにちがいない。それも、60余年間の神戸での生活期間ずっとそう映っているのだから、きっと「もともとこの二人はこういう関係の夫婦」と思われていると思う。神戸での生活を見る限りそれは“事実”だったし、私にとっても生まれてからずっと、父と母はそういう関係だったから、私もそう思っていた。しかし二人が結婚する前、結婚した直後は決してそういう関係ではなかったようだ。登喜は私に、「理論的にもしっかりした人で、私にいろいろ教えてくれ、リードしてくれた人」「芥川竜之介のような印象の青年」と笑いながら語る。
このイメージと、私が見て育った父のイメージを比べるなら、病気による打撃の大きさが伺い知れる。
それでも、物事の理念については一貫したものがあった。しかし、社会活動での政策、行動方向の具体的な判断では、自らの理念に反する判断をしてしまうこともあったのではないかと思う。そうして友人やまわりの皆さんの意見や指摘を受けて正したことも少なくなかったと思う。
私としては、子どもの私に対しても、自分の言動の誤りに気づくと「すまん」とすなおに謝るなど、えらぶる所がないことが好きであったし、えらいと思っていた。父、益喜にたいして、心からの助言を下さる方もいたし、最大の助言者として登喜もいた。その助言があってこその小松益喜であったといえるのである。