益喜を語る

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「五〇人展落選事件」に関わって

権威ある美術展としては、当然のことであったが、この「事件」が、『五〇人展』出展者の刷新をうながしたことは、まぎれもない事実である。

一方この頃、吉原さん主宰の具体美術協会からは、日本でよりもニューヨークのギャラリーで勇名をはせる、二人の画家の鮮烈なデビューがあった。白髪一雄さんと元永定正さんである。

また、毎日ビェンナーレには、昭和37(1962)年第五回展から公募部門が設けられたが、その公募部門に応募、堂々入選をかちとる兵庫出身作家が現われる。鴨居玲さん、田中竜児さん、西村元三朗さんという、三人の新進画家の勇気ある挑戦であった。当時は兵庫の新進画家として肩で風切る存在であった、DさんやKさん、Nさんとかいう人たちが、「落選を恐れ」皆さん尻込みなさるなかでの快挙であった。その頃は無名の日本画家=田中竜児さんなどは、コンクール賞受賞の栄冠に輝く。さらに、次の第六回毎日ビェンナーレでは、これまた当時無名の松本宏さんコンクール優賞受賞の、ビッグなニュースも飛び込んでくる。

こういう方たちを『五〇人展』に加えるとすると、どうしても外れていただかなければならない方が出るのは、つらいことだが止むを得ない。FさんKさんとか、Mさん0さんとかいう人たちが、「かつての大画伯の老残見るに忍びがたし」ということになって、まず落とされた。そして、落選候補最後の一人に、小松益喜さんの名が上がるのである。