小松益喜を語る

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「小磯洋風絵画」を育んだ三田藩の血

鎖国時代から凄まじい情念を燃やし続けてきた九鬼氏にとって、安政元(1854)年の開国は、代々受継いできた「海外雄飛」という積年の念願成就の、絶好の機会であった。

幕末の三田藩主=九鬼盛国は、早くも文政十二(1829)年、才気の士=川本幸民を洋学研究のため江戸に派遣する。さらに最後の藩主=隆義は、儒学者ながら洋学の博識でも知られた白洲退蔵は藩政の中枢に登用している。そしてついに、明治4(1871)年の廃藩置県の翌々年には、旧藩をあげて新天地を求め開港場=神戸に出てくる。このとき、隆義が帯同した旧藩士の中に、白洲、小寺、喜多など各氏の他に、小磯、岸上の両氏もいたのである。

三田藩の旧藩士=白洲退蔵の開明思想については、神戸市内某旧家に残された三代前の当主の晩年の『回顧録』に記されている。

「白洲退蔵氏は三田藩の老士で学者で、西洋事情は能くわきまえた積もりで御一新に成って欧米の政事に擬せられて、君主政治・君民同治・共和政変の三つのうち、もはや東洋の支那政事や日本の徳川政事でなく、君民同治ではないかとおぼろげながら推断したものと見えて、県庁に一本遣った…」

ところ、時の県令=神田孝平(たかひら)に
「君主専制政事なるぞ」
と諭されるくだりに出てくるのが、それである。この記述から察するに、白洲退蔵に代表される旧三田藩士たちは、維新直後早くも今日の「象徴天皇」と民主政治の共存のようなものを夢見ていたかに見える。