小松益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

序文

この火急の場に臨んでも、ゆうゆうと維新後の経済政策を提言する辺りに竜馬の、「政治闘争」忌避「民」風を貫く「野人」姿勢が躍如としているように思われる。その夢の実現の一歩手前で、同年11月15日、坂本竜馬と中岡慎太郎は、「幕府見回り組」に暗殺されてしまうのである。

しかしいまだに、その「下手人」について、幕府見回り組とするほかに薩摩藩士説がとり沙汰されるのは、竜馬の平和革命路線に対し真っ向から対立していたのが、薩摩の西郷隆盛であったからであろう。

慶喜「大政奉還」直後に竜馬を宿に訪ねた際、坂本案の「新政府綱領」を見せられた西郷は、そこに「〇〇〇盟主と成す」と謎めいた伏せ字のあることをいぶかり、「竜馬が 『慶喜公』盟主を考えているのでは」と想像をめぐらせたこと。また別の日に竜馬案「新政府要人名簿」を見せられ、そこに彼自身の名のないことを指摘したところ、「役人などまっ平。…世界の海援隊でもやり申すか」と他人ごとのように答えたという話もよく知られている。その帰途、西郷が「彼を野に放つことの危険」を同僚に洩らしたことから、世間に広まった逸話である。

また別の日に、越前藩士=横井小楠「フランス型共和政体論」を竜馬から聞かされた西郷は、竜馬の思想の行き着くところの「天皇制解体」を非常に危惧していた、とも考えられるのである。維新後の『肥後藩国事始末』に「…坂本殺シ候モ薩人成ル可ク侯」とあるのは、あながち空論とは思えない。

増田洋さんが、小松画集に、「むかし坂本、いま小松」と大胆な評記をしたのは、あきらかに、「公人」小磯良平さんとはまた異なった、小松益喜さんの「野人」ぶりを、竜馬になぞらえてのことである。

そしてそこには、三田藩九鬼氏流の家風を引き継ぐ小磯さんと、酒造職人の子として土佐の風雲児=坂本竜馬流生き方を引き継ぐ小松さんとの、独特の旧国人気質(かたぎ)の差異を、まざまざと見る思いがする。