小松益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

序文

しかし、事態は急展開を見せる。すでに竜馬の仲介によって、成立していた「薩長同盟」は、朝廷内の過激派公卿集団とくに三条実美(さねとみ)や岩倉具視(ともみ)をも抱き込んで、武力倒幕一辺倒の方向へ突き進んでいた。その武力調達に一役買ったのが、他ならぬ竜馬率いる海援隊でもあった。ことここに至って、「武力倒幕」の情勢にも対応しなければならぬと判断した竜馬は、ふたたび三度び柔軟に思考を変転、土佐藩に最新式の元込め銃千挺を提供して、薩長と対等の武力を準備させている。時あたかも、慶喜が「大政奉還」を宣言すると同時に、薩長両藩に「倒幕密勅」が下った。慶応三(1867)年10月のことである。

「人民を戦火に巻き込んではならぬ」。土佐の郷士といっても、先々代が郷士株を買い取って武士になったばかりの酒造業者・質屋の息子=坂本竜馬ならではの、「野人」としての平和革命路線の追求が始まる。

暴力革命派の薩摩・長州や三条・岩倉たち、平和革命派の越前・土佐藩主を口説き、相手方の将軍慶喜の側近にまで手を回して自重を訴えるなど、この間の竜馬の超人的奔走ぶりは今日ではあまねく知られているところなのでこの際省略するとして、竜馬暗殺の13日前、彼を京の宿に訪ねてきた越前藩士=由利公正(きみまさ)に対して、「今回の革命の機を利用して金融の道を開き、開国の機を掴んで国の富を増やせば、王政復古の実もあがる」と、革命成就後のわが国経済再建路線について意見をかわすところに、竜馬という人物の実像を知ることができる。