益喜を語る

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山手の「移動対談」

(ムッシュー・コマツは足も気も速い。「北野へ行きましょう」。絵と同じで現場主義だ。格子のハンチングをかぶって、坂道を小走りに下る。大声で「タキシー!」。あっという間に車は異人館通りへ。ここからは神戸・山手の「移動対談」である)

小松

この町が通称異人館通りですわ。右手へ上がるこの坂がハンター坂。戦前、坂の上に親日家のイギリス人が住んでいて、範多と称してた。大地主でねえ。ハンター邸もよう描かしてもらいました。その路地を左へ下りましょう。白系ロシア人のスタデニックさんの旧邸です。人のいいおばあさんが住んでましたよ。さあ、行きましょう。

山田

あっ、ここはグラッシャニ邸ですね。画集にある家ですねえ。

小松

いい家でしょう。ぼくが毎日、この前で描いてるもんだから仲良しになってね。門の傍の爽竹桃はしだれになってきれいですよ。

山田

小松さんほ現場で描く主義だそうですね。30号、50号を道ばたで仕上げるんですか。道具を運ぶだけで大変でしょう。

小松

北野一帯の知り合いに分けて預けてありますよ。さあ、ここが門兆鴻邸。二つの建物を渡り廊下でつないであるでしょう。『渡り廊下のある異人館』の題で六十号に仕上げました。

山田

画集に入ってますね。その西憐は?立派な家ですねえ。

小松

シュエケ邸。いい家だが、一部改築したのが惜しい。(西へ向かう) この南北の坂がトア・ロードです。まっすぐ下ると港へ、北へ登ると神戸外国人クラブ。昔、ここにトア・ホテルがあった。1890年と礎石に彫ってあるでしょう。緑青のドームに赤い柱がきれいだったですよ。

山田

ここは戦後、焼けたんでしょう。

小松

アメリカ占領軍の将校夫人が電熱器のスイッチを切り忘れて、丸焼けになった。惜しい建物だったねえ。それでは右へ折れて。ここが北野通り。そこをちょっと入ると楠の木の生えた家がある。あ、この家だ。白系ロシア人の婦人が一階と二階に住んでいましてね。貴族だったそうで、マリニンとフタレフという名でね。

山田

姉妹ですか。

小松

他人です。共同で持っていた。この門の前で絵を描いてたら、ばあさんが出てきて「カイタラダメ」というの。それで「あなたはとても美しい」と褒めてやったら、ふろに二時間も入ってお化粧して見せに来ましたよ。「オレンジガナリマシタ。エヲカキニイラッシャイ」と電話があったので行ってみたら、夏ミカンが一個なっていた。(笑い)

山田

NHKのテレビ小説で有名になった『風見鶏』の家は?(もっと向こうと、東へ進んで)

小松

はい。ここが風見鶏の館。ドイツ人の建築家デ・ラランデの設計で、もとのトーマス邸です。この下の家が通称「白い異人館」、国の重要文化財に指定されてます。その上が『風見鶏』のモデル、パン屋のフロインドリ−フ邸です。

山田

神戸の人間文化財、小松さんにガイドをしてもらって全く光栄です。(笑い)

小松

いやいや。もうちょっと上がりましょう。ここにもと、作家の陳舜臣さんが住んでいた。ぼくが朝早くから一日中、この前で絵を描いてるもんだから、舜さんが心配して奥さんに、「小松さんはいつ飯を食うんだろう」 と言うた。(笑い)それで奥さんが四川料理を作ってごちそうしてくれた。うまかったなあ。(笑い)日が暮れてきましたね。ぼくは家内と娘に言うてありますわ。 わしが倒れたというたら、そこは北野や。救急車は北野へ回してくれ、とね。わしは天気がよけりゃ朝から晩まで、ここで絵描いてますのや。

【追記】

小松さんから手紙が届いた。私信だがお許しをいただこう。

「(前略)小生、相も変らず現地写生で頑張っています。北風吹き抜けの寒い所です。(中略)

北風に吹きまくられて絵かきいる 絵描きはあはれ七十九才

なぜこんな寒いところで老の身をさらしているか。前景の樹が枯れ樹でなくては背景の家がかくれてしまうからです。(後略)」