益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

夫婦で非合法活動

山田

絵を描きはじめたのは高知工業の三、四年生ぐらいからですか。

小松

いとこに中沢準一という絵のうまいのがいて、二人でよく空のない絵を描いていましたよ。

山田

空がない?

小松

人に見られると恥ずかしいから、鴻の森や鷲尾山の上から下の風景を描く。だから空がない。(笑い〕

山田

油絵ですか。

小松

ええ。当時、ニュートンの白が一円二十銭、そのころにしては大金ですよ。おやじに頼んでやっと買うてもろうて、大事に使いました。五年生の時は、美術学校を受けようと思ってデッサンを一所懸命やりました。特に先生についたわけでもないから、苦労して勉強しましたよ。

山田

小松さんの西洋建築の絵を見ると、工業学校でやった用器画が陰で役立っているように思いますが……。

小松

確かに用器画は好影響を与えてくれてますね。遠近法は大事ですよ。中国の絵画書にも出てくる。たとえば『十二忌』という本に「布置拍蜜を読む」「遠近を分かたず」「遠近無きを忌む」とある。ぼくは西洋画を描いているが、これで東洋画論者なんだ。

山田

東京美術学校の西洋画科は大変な難関だったでしょう。なかなか入れない。

小松

七、八人に一人の競争率だった。一回目はダメで、猛勉強して二度目にパスした。しかし、おやじは絵描きになるのは反対だったですよ。同期には山口薫、矢橋六郎なんかいた。小磯良平さんは三年先輩だった。

山田

教授陣のスタッフにはどんな人がいたんですか。

小松

岡田三郎助、藤島武二、和田英作、長原孝太郎、牛島憲之といった先生方です。ぼくは藤島先生のところに一学期だけおって、アルバイトができんからというので岡田教室へ変わったら、余計アルバイトができん。今さら変わりたいとも言えんし、弱ったなあ。何しろ逃げ出すのがいると、どんどん落第させるんだ。和田さんが校長になると制服制帽でないと学校へ来ちゃいかん、ということになった。ぼくなんか、いつも小倉のはかまに下駄ばきたった。

山田

小松さんの年譜によると、「在学中、三木ときと結婚」とありますが、幼なじみのお嬢さんと学生結婚されたわけですか。

小松

ぼくは貧乏な画学生でね。第一高女を卒業した彼女が兄さんを頼って上京してきて、二人で働いていた。ぼくはそこへ行って借金したり、飯を食わせてもろうたりして、ずいぶん世話になった。そうして1924年(大正13年)に結婚したんです。

山田

非合法活動に入られたのは? 年譜によると「左翼運動に参加し一時期絵画生活空白」とありますね。

小松

卒業前にプロレタリア美術運動に参加して、地下活動に入った。給料三十円もらって日本共産党機関紙の『赤旗』に絵や図案なんか描いていました。渡辺政之輔や山本懸蔵の肖像を描いたりしてねえ。家内も全協で非合法活動をやってました。

山田

柳瀬正夢は? ぼくは戦争中、新京(長春)で会ったことがありますが。

小松

柳瀬さんはぼくの後を継いでやってくれた。終戦前に新宿駅の近くで爆撃を受けて亡くなったですね。ぼくは東京では名前を警察に知られてなかったから、引っかからずにすみましたよ。

山田

それで美校は卒業できたんですか。

小松

昭和五年に卒業しました。卒業写真があるので見て下さい。前列に寝ころがってるのが何人かおるでしょう。その中にぼくもおるんだ。校長から「寝ころんで卒業写真とったのは、本校始まって以来だ」と怒られましたよ。(笑い)白いひげを生やした老先生がいましたが、これは彫刻の高村光雲先生です。光太郎のお父さんですよ。

山田

運動やりながらよく卒業できましたねえ。そのころの画風はどんな傾向だったですか。

小松

(アトリエ正面の50号の風景画を指さして)あの絵が当時のものです。パレットナイフで描いてあります。この時代はスゴンザックの影響を受けていた。ポエジーがあるでしょう。

山田

そうですね。初期の作品だなと思って、さっきから拝見してました。