益喜を語る

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旭一のわりことし

山田

小松さんに初めて会ったのは終戦から二、三年後、高知新聞の二階にあった共同通信の支局へ、疾風のように飛び込んできた人が「おう。この角度はええ」と言うと、窓の傍へ行っていきなり天守閣のスケッチを始めたんですね。それが小松さんだった。(笑い)

小松

支局長は俳人の浜田波川さんだったでしょう。

山田

三人で大橋通りのアンジェラスという喫茶店でお茶を飲みました。二人とも声が大きくて。(笑い)小松さんは旭のご出身ですね。

小松

旭の古新地(ふるじんち)で、おやじは造り酒屋をやってました。ぼくは旭で一番わりことしでねえ。(笑い)

畑のイモは引き抜く、山へいってクリは取る。鏡川のどこになんの魚がおるか、全部知っちょる。たかでてこに合わん。勉強はひとっつもせん。カバンをポンと放り込んで日が暮れるまで、わりことをして回った。田岡典夫君は同じ旭小学校で、二、三年下級だった。彼はおとなしい坊ちゃんで、まじめな子だったねえ。田岡君の家へもよく遊びに行きました。

山田

赤石御殿といわれて、大きな屋敷だったでしょう。

小松

田岡君のお母さんに何かわりことをして叱られたことがあってねえ。それで、よしっということで、貼ったばかりの障子に全部指で穴を開けて回った。こうやって、指の先にツバをつけて。(笑い)

何しろ十幾つも部屋かあるから大変だ。それに全部穴を開けた。お母さんはよくできた人だが、さすがに立腹した。学校へ言うて行たから大事(おおごと)です。ぼくは三日間、放課後に教員室に立てらされた。(笑い)それがおやじに知れたからまた大事です。 二十四石入りの洒ダルに放り込まれた。きれいに洗うたカラのタルです。そのうち小便をしとうなったから、中でやった。外へしみ出したのを職人が見て「ありゃ、カラにして洗うてあったが」。(笑い)わりことはしたが、学校は一日も休みません。皆勤賞をもろうて卒業しました。

山田

奥さんも旭小学校で、下級生だそうですね。

小松

家内の家は中須賀で、大きな傘屋をやっていた。父親を亡くして、母親が店をやってました。兄が二人いて、家内はそこの一人娘です。

山田

じゃあ、幼なじみですね。

小松

後になって、その傘屋の娘を友人と張り合ってね。とうとうぼくが勝って嫁さんにした。(笑い)その友だちは最近亡くなりました……。

山田

高知工業へ進まれたそうですね。

小松

ぼくは工業、彼女は第一へ通いました。工業は北与力町(永国寺町)、道を隔てて北門筋(丸ノ内二丁目)に第一高女があった。

山田

いよいよ禄が深い。(笑い)工業の生徒は第一の女学生にいろいろわりことをしたんじゃないですか。

小松

体操の時間には窓からみんなでひやかしたり、裏からのぞいたり。かわいらしいもんです。(笑い)