益喜を語る

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愛用の自転車

山田

小松さんの年譜を見ると「北野町、山本通り、元居留地など、異人館風景に魅せられ、貧困と苦闘の絵画生活つづく」とありますね…‥。

小松

絵具代が払えなくて、描きかけの絵具を画材屋に持って行かれたり。(笑い)だけど、高知から運んできた特製の自転車が大いに役立ったねえ。50号のカンバスが二枚乗っけられるように、鉄製の荷台に細工をしてあってね。神戸はもちろん、東は大阪、高槻、西は姫路まで絵を描きに遠征しました。

朝は四時起き、晩は夜中過ぎて帰る。途中、自転車乗りといっしょになって競走したりね。(笑い)そうだ。戦後早々、大阪からの帰り、電線ドロと道連れになったことがある。そいつは交番があると、すっと裏道へ入る。近道なんか詳しいんだ。こりゃ、やばいと思って途中からドロンしちゃった。(笑い)今でも足には自信がありますよ。

山田

小磯良平さんが小松益書画集『神戸の異人館』の序文で、「彼の野外写生の特徴は自転車が主体をなしている」と書かれてますね。その自転車はまだありますか。

小松

ぼくも年とったので廃車にしちゃった。画集の第一ページに『英三番館』を載せてあるが、その絵の左隅に描いてあるのが問題の自転車です。

山田

小松さんは美校時代から連続二科に入選していますが、新制作派協会に参加したのは小磯良平さんとの関係からですか。

小松

小磯さんとは神戸へ来てから親しくさせていただいたが、二科をやめたのほ正宗得三郎とけんかをしたからなんだ。正宗さんに絵を見てもらいに50号の絵を担いで訪ねて行ったら、庭へ回れというんだ。正宗さんは地べたに置いたぼくの絵を下駄をはいた足でさしてね。ここのところがどうの、こうのというんだよ。

それでぼくは怒ったんだ。「ふざけるな。だれが描いた絵であろうが、心をこめて描いてあるんだ。土足で指図をするということがあるか」。たんかを切って帰ってきた。(笑い)

山田

やっぱり土佐の男だなあ。しかし、昭和10年に朝日洋画奨励賞、11年、大阪市展で市長賞第一席、12年、新制作展で新作賞と、お仕事が認められるようになったんですね。『居留地風景』『古い洋館』『山本通風景』と神戸の居留地と異人館がテーマですね。それが現在まで50年つづく。神戸新聞社には「土佐っぽ、一直線」と書いてある。

小松

そうですね。しかし、思い出してみると一番うれしかったのは昭和17年に昭和洋画奨励賞をもらった時ですよ。貧乏してた時でね。何しろ賞金が4000円だった。もっとも、友だちがきて二千円やったけど。(笑い)

山田

気前がいいですねえ。(笑い)その時の絵は?

小松

『室生寺です。大和の室生(奈良県宇陀郡)へ行って描きました。そんな縁もあって土地の人と親しくなって、室生へ疎開した。親切な人がいて、室生寺の境内や山林を管理する事務所を紹介してくれて、そこの所長の奥本幸一郎さんが二階を貸してくれた。良仙さんという管長さんの肖像を描いただけで、家賃は一銭も払わずじまいですよ。(笑い)

室生寺は今は観光寺院だが、当時は山道を二時間も歩いたもんですよ。真っ暗な夜道を大声で万葉集を朗誦しながら歩くんです。こういう歌をね。

降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の猪養(いかい)の岡の 寒からまくに

とかね。

山田

リンリンとして、よくとおる、いい声ですね。小松さんは万葉集も詳しいんですねえ。

小松

何しろ、いつイノシシが飛び出してくるか分からんからね。大声を出しておどすんですよ。(笑い)ムササビはいる、マムシは出るという山の中だから。それで大きな声を出して追っ払おうというわけだ。こういう調子でやる。自己流ですよ。

草枕 旅にしせなが まる寝せば  家なるわれは 帯解かず寝む

三輪山を しかも隠すか 雲だにも  情(こころ)あらなも 隠さふべしや

場所と風景に応じて歌を変えるわけだ。(笑い)