益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

カエルと記憶喪失

山田

昭和5年に東京美校を卒業して、高知に帰られてますが、小松さんはその前後の記憶にブランクがあるそうですね。そのあたりの状況をよろしかったら奥さんからお話ししていただけますか。

夫人

そうですか。それでは代わりにお話ししましょうか。主人は夜も昼もなく活動をしていましたが、その疲労からでしょうか、嗜(し)眠性脳膜炎にかかりました。毎日、四〇度を超す高熱が出て、九日間もこん睡状態が続いたんです。もう、どうなることかと思いましたが、ともかく命だけは助かりました。そして、なんとか退院はしましたが、記憶が薄れてなかなか戻らないんです。これでは東京にいてはダメ、高知へ帰るしかないということで。

……わたしも非合法活動をやっていて、ロク膜を患ってましたし……

山田

それは大変だったですね。旭のご両親の家へ帰られたのですか。

夫人

いえ、その時分、小松の家は香美郡野市町の大谷という所に移って、造り酒屋をしていました。すばらしい環境でした。だけど、主人は脳膜炎の後遺症でしょうか、一種の記憶喪失に陥りましてね。最初は一日中、座ったきりで口も全くききませんでした。知人が訪ねてきてくれても、ほとんど分からないのです。それでもさすがにお母さん(とらさん)だけは、はっきりと覚えていましたよ。不思議なものですね。

小松

カエルを取ってきて描いたのを覚えてるわ。

夫人

カエルの話も、わたしの言うのを聞いて言ってるんだろうと思いますよ。療養していても回復の兆しがないんです。落ち込むばかりですから「釣りにでも行ってみたら」とすすめて、近くの川へ行かせました。

小松

 あの川は何と言う名かなあ。

夫人

釣りといっても、ただ水の中へ糸を垂らしているだけで、魚を釣ろうという意志もないんですね。実際に一匹も釣れませんでした。ところがある日、カエルを釣ってきたんです。そのカエルを大事そうにビンの中に入れて、じっとにらめっこしてるんです。それで「カエル、描いてみたら」と言うと急にスケッチを始めました。真剣そのものの表情で。……「しめた」と思いました。それから自分でチョウやトンボを捕ってきて描くようになりました。 だんだん、山や川の風景などを描き出しましてね。うれしかったですね。記憶喪失の状態から立ち直りかけたんです。その時、つくづく思いました。「やはり、絵描きなんだなあ」ということですね。それからぼつぼつ口もきくようになりました。一匹の小さなカエルが主人をよみがえらせてくれた――そう思います。

山田

いや、感動しました。いいお話ですね。

夫人

二人ともその年の秋ぐらいにはやっと元気になって、高知の反戦、共産主義運動に参加しました。

小松

毛利孟夫、信清悠久、吉永進、槙村浩、浜田勇、山崎小糸といった人たちと連絡がついた。病後だし、大した活動もできなかったが、昭和7年4月21日、家内といっしょに検挙されたですよ。信清、槙村らも同時にやられた。

山田

奥さんは赤岡警察署に留置されたそうですね。

夫人

 赤岡署に二百二十日間留置されました。その時に妊娠していることを知りましてね。留置場で作ってこっそり持ち出した歌を『幾山河』という歌集に収めてあります。

山田

「浪音抄」がそうですね。

一本の鉛筆拾いしより はしなくも 歌よみはじめぬ 留置場の中で

赤岡の留置場はうれし 独り寝の枕辺近く浪の音する

次の歌は信清悠久さんが高知新聞で「留置場の歌人」として紹介されてましたね。

吹きすさぶ嵐の音を聴きいつつわれ留置場に母となるらし

すごい歌ですね。

夫人

わたしは12月に不起訴になり、小松の 実家に引き取られ、翌年一月、長女幹代が生まれました。主人は二月、執行猶予で帰って来ました。

小松

いま思うと、留置場を出た時がわたしの画家としての再出発だったですね。高知の絵描き仲間たちと洋画研究所というのを作って、後免町で展覧会をやったりしました。

山田

そのころの仲間といいますと…。小松 信清誠一、大野竜夫、島村治文、森田早稲(はやね)といった連中です。信清も大野もいいやつでね。

山田

みんな懐かしい名前ですね。橋田庫次さんは?

小松

橋田さんにはお世話になったなあ。新京橋に家があって、酒好きでね。おやじが洒を造ってるから酒を持って行って、家賃ただにしてくれと頼んで置いてもろうたり。(笑い)

山田

そのころ、向井潤吉さんが高知へよく来てたでしょう。高知の素封家で西山閤二(覚治)というユニークな絵を描く人がいましたね。

小松

そうそう。西山さんはお金持ちでね。コレクターでもあった。ぼくの二科初入選の絵を西山のおんちゃんが買うてくれたんだ。画材屋のおやじが十二円五十銭で売ってきたから、「安い」というて怒ったんだ。(笑い)

山田

西山さんは元来が商売人だから、一円でも二円でもまけんと買わなかったそうですね。向井潤吉さんのクールベの模写『争える鹿』も、随分粘って値切って手に入れたそうですね。

小松

西山さんは二科をはじめ全部の団体展に出品して、全部入選したことがある。次の年も全部出したら、今度は全部落選した。画壇では一つの団体にしか出したらいかんという不文律のようなものがある。西山さんはそれを知らなかったんだねえ。

山田

ぼくが中学生のころ、西山閣さんは毎日、京町に三脚を据えて50号ぐらいのキャンバスに、靴屋のショーウィンドーを描いてるんですよ。女物の靴を一足ずつ、丹念に描き込んでいましてね。学校の帰りに「おう、きょうは靴の数が増えちゅう」なんて言って。(笑い)高知城の天守閣を描いてるところも見ましたが、かわらを一枚、一枚描いて。お城の形が自然にデフォルメされているんですね。

小松

ぼくのおやじが「あんな絵のどこがええぞ」と言うから「あの人の絵は稚拙派、素朴派というんだ」と説明しましたがね。西山さんは高知の空襲でコレクションを全部焼かれた。惜しいですね。

山田

ところで、いよいよ高知を出て神戸へ行かれるんですね。

小松

昭和9年の8月ですよ。最初は東京へ行くつもりだった。女房が持っていた金が全部で35円くらいあったかなあ(「そんなにありません」と夫人)。家財用具も夫婦と子供の布団と絵画用具、荷台付きの自転車だけ。室戸丸か浦戸丸かで神戸へ着いた。神戸は工業学校の時、修学旅行に来て魅力に取り付かれていたこともあって、そのまま居着いてしまって50年たった。(笑い)

山田

 槙村浩(詩人、代表作『間島パルチザンの歌』。1912−1938)が小松さんを訪ねて来たのは?

夫人

(益喜氏に「あなたが話しなさい」とすすめられて)槙村さんが来たのは1936年(昭和11年)ですね。上京の時と高知へ帰る時の二度寄って行きました。精神的、肉体的にとても疲れていて、壁に向かってブツブツ何かつぶやいたり。大福もちをお皿に盛り上げて出したら、それを全部食べてしまって、びっくりしました。そしたら便所へ入って全部もどしてしまうんですよ。ぼくは殺人光線にねらわれている、だれかが殺そうとしてるなんて、真顔で言ってました。

普通の精神状態ではなかったですね。

山田

土佐脳病院で亡くなるんですねえ。槙村浩の生涯を書いた土佐文雄氏の『人間の骨』と大原富枝さんの 『ひとつの青春』はお読みになりましたか。

夫人

土佐さんのは読みましたが、大原さんのは読んでいません。

山田

槙村浩の会の機関誌『グッタン海峡』に奥さんのお話が出てますね。

小松

『ダックン海峡』の表紙はぼくが描いたんですよ。