益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

異人館描き続けて

山田

(アトリエの壁にかかっている朱色の五重の塔と雪景色の絵を見上げながら)いい絵ですね。室生寺ですね。

小松

『雪の五重塔』(50号)、室生時代の絵はこれだけになりました。

山田

神戸へ帰ったのは?

小松

終戦の翌年の暮れ、女房と子ども四人連れて帰ってきた。(笑い)

山田

小松さんは神戸で「異人館の画家」と呼ばれて大変有名ですが、これまでに何点ぐらい描かれましたか。

小松

戦前戦後を通じて三千点は描いたでしょぅ。戦前は旧居留地にええ洋館がたくさんありましたねえ。それが空襲で全滅した。

戦時中に居留地の江戸町に赤レンガの四階建ての建物があって、その風景を描いていたら、憐の二階建ての洋館から出てきた人が「ありゃ。おまん、高知の小松さんじゃないかよ。たまるか、アッポロケじゃ」という。こっちがアッポロケじゃ。(笑い)その人は高知の竹内さんという製紙会社の人でねえ。確か伊野の人だった。

山田

田宮虎彦さんと共著で『神戸』という本を出されてますね。

小松

田宮さんはご両親が高知の人で、神戸育ちですからね。誠実な、いい人だが、なかなかいっこくなところがある。やっぱり高知の人ですよ。(笑い)

山田

小松さんは『異人館の街』という豪華本の画集と、素描集の二冊、神戸新聞から出版されてますね。

小松

あの本の企画、出版をしてくれた松井高男さん(神戸新聞出版センター社長)は、あなたの親せきだそうじゃないですか。

山田

おやじがいとこ同士です。彼は神戸育ちだが、おやじは種崎の出身です。

小松

そんでか酒が強い。(笑い)

山田

画集のトップに 『英三番館(第八作)』が出ていますが、この作品は傑作だし、小松画伯の代表作でしょうね。

小松

この建物をぼくは八年間、毎年一作ずつ描きつづけましたよ。メリケン波止場を北へ上がった居留地西町にあって、トムソン商会という店だった。画集の絵は八年目の八番目の作品です。いま兵庫県立近代美術館に入ってます。それと『オリバー・エバンス商会』、これも美術館に行ってます。

『英三番館』を描いていたら、二代目店主のグリヒスさんという人がカラーの絵はがきを持ってきて「アナタ コノエ ミテカキナサイ」というんだ。見たら、ぼくの絵じゃないか。(笑い)

山田

この絵の解説に小松さんは「技法は、グラシ(グレース)を主に使っている。ファンデーション(地塗り)を白っぽくし、ルフランのパンドール油を使って透明な色をかぶせていく方法である」と書いてますね。絵描きさんというのは普通は自分のマチエールは秘密にするんじゃないですか。

小松

ぼくは平気です。どしどし書いて、みんなの参考になれば結構だ。

山田

初期の作品、『ガス灯のある風景』『元居留地・浪花町風景』『グリーン通りの鎧窓』などにはユトリロを感じますね。

小松

ユトリロからコローへと変わって行ったですね。

山田

五十年間に三千点も神戸の風景をお描きになると、神戸の歴史、建築、風俗の移り変わりをじかに肌で感じ取られているでしょうね。

小松

北野一帯の異人館を保存する運動が起きましてね。ぼくが異人館を描きつづけてきた執念が、運動の一つの原動力になっているかもしれません。北野通のグラッシャニ邸、この画集にも載ってますが、神戸市が保存建築物に指定して家を塗り替えるというので、ぼくが頼まれて交渉に行った。そうすると持ち主が「ドシテ ニッポンジンハ ヨソノイエマデ ヌルンデスカ」 (外人の口調で)というから、「いや、いい建物だから保存したいんです」というと、「ワタシ ジブンデヌリマス」と門だけ塗っちゃった。(笑い)

山田

フランス人ですか。

小松

イタリア系のフランス人です。異人館も山手に二十軒くらいしか残っていない。高度成長時代にどんどん壊して、建て替えた。あっという間に壊して、ラブ・ホテルになったりする。困るんだなあ。ぼくが絵を描いていると、女の方が先に出てきてあたりを見回して「いま、いいわよ」。すると男がすまして出てくる。(笑い)

山田

現代風俗もお詳しい。(笑い)