廣田生馬・神戸の街を描く (1)

益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

神戸の街を描く (1)

1934(昭和9)年8月、小松益喜は再度の上京を決意し、妻子とともに高知を発つ。その途上、港町・神戸に立ち寄るが、異国情緒あふれる街並みの美しさに強く魅せられ、上京せずそのまま神戸にとどまる。夫人の姉の持家に居し、旧居留地の建物や、北野界隈の異人館などをモティーフに、精力的に創作活動を始めていく。

この時のことを画家自身は、「1934年の夏、私は東京での画生活をめざし、妻子を伴って郷里高知を出て来たが、途中神戸へ立ち寄ったのが機縁となって、そのまま神戸に住みついてしまうこととなった。神戸山手を歩き、元居留地を歩き、そこに見る異人館のある風景に釘づけになってしまったのである」と述懐している。

衝撃的な小松益喜と神戸の“出会い”であるが、そこには何らかの運命的な必然性を感じさせるものがある。美術関係者の間で伝説にもなっているこの“出会い”について、小松益喜自身は、

「それ(神戸の街並み)は、かつてユトリロによって開眼され、私の脳裡に灼きつけられていた『詩情ある風景』の題材そのものだったのである。町の角々についていた鉄の街灯の美しかったことも忘れられない。私はもはや上京することなど忘れてしまい、そのまま神戸に居すわって、無我夢中でこれらの異人館を描きはじめたのである。(…)私にとっては、対象物に感動し、無我夢中になって描くこと以外に、なにものもなかった」
と、深い感慨を込めて語ってもいる。

以来60年余に及び、神戸の各所の街並みが、小松益喜の制作の題材となり、洋館や街角のたたずまいが、制作の舞台となるのである。

荷台に細工を施した愛用の自転車に、大きなキャンバスをのせて、神戸の街中をせわしく駆け回り、ひたすら街景を描く日々が続く。

「人なつっこい性格なので、描いている家やその近所の方々と、すぐ知り合いになってしまうんです。そして、描きかけの絵をそのお宅に頂けて来るんです。主人は小柄なので、移動している時は、キャンバスの方が大きいくらいでしたけど(笑)、とにかく一生懸命でした」と、登喜夫人は回想する。

神戸に来て間もない頃の作品の一つに、旧居留地91番地をおもむき豊かに描いた「ガス灯のある風景」がある。古びた3本の門柱や煉瓦の描写に、苦心の後がうかがえるこの作品は、完成までに3年間の歳月が費やされている。この間、毎朝6時から9時まで制作をしていた、と小松益喜は語っている。早朝に来る牛乳配達の人とすっかり親しくなって、いつも牛乳を1本御馳走になっていたそうである。