廣田生馬・神戸の街を描く (2)

小松益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

神戸の街を描く (2)

また、第1回新制作派展に出された「白い家(白系ロシア人の家)」も、この頃に制作されている。建物の白壁と鎧窓や柵の緑色の対比が、大変美しい作品であるが、この家には亡命してきた元貴族の老婦人が住んでいたという。帰国する時に絵を所望してきたが制作途中なので、小松は断ったそうであるが、「ソ連に帰国の許可が出て…」と嬉しそうに微笑んでいたのが忘れられないという。

このように、ひたむきに神戸の街を描き続ける小松益喜の真摯な姿は、多くの人々の強い共感を呼び起こしていく。小松益喜が神戸の街を愛するがごとく、この一途な洋画家は、神戸に住む人々や神戸を訪れる人々に深く愛されていった。

以後、今日に至るまで神戸を制作の主たる舞台とし、「異人館の画家」として親しまれている小松益喜の多大な業績は、一般に広く知られ、語られるところである。1959(昭和34)年に兵庫県文化賞、1975(昭和50)年には、神戸市の文化賞を受賞している。

ところで、小松益喜と交友のある、作家の陳舜臣氏は、都市開発の激しい波にさらされる神戸・北野の異人館を懸命に描き続ける小松について、

「昭和40年代のはじめころだが、小松さんは荷物を抱えて、よく走っておられた。走るまで行かなくても、たいてい小走りに歩いておられた。『そんなに急いでどこへ行かれるのですか?』と、おききしたことがある。『早く行かないと日が暮れてしまいます。それだけ絵をかく時間がなくなりますからね。(…)早くかかないと、どんどん消えて行きます』。答える時間も惜しそうに、小松さんは足早やに先を急いだ」
と回想している。

神戸をはじめとする“街”に対して抱く、洋画家・小松益喜の気持ちの根底が、この一節の中に集約されているのではないだろうか。我々の日常生活をあたたかく抱擁する街は、まぎれもなく生きており、絶えず呼吸を続けている。だが同時に、街の様々な魅惑的表情は、極めて移ろいやすく、はかない投影の残像でもある。

こよなく街を愛する小松益喜は、すぎゆく時を惜しむ間もなく、光景という光景を秩序ある構図で切り取り、その優れた筆致で、永遠の空間であるキャンバスの中にとどめ続けたと思われる。