廣田生馬・小松益喜と小磯良平

益喜を語る

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小松益喜と小磯良平

神戸に定住した小松益喜にとって、地元の画家達との交流は、大切なものであった。中でもとりわけ大きな存在となったと思われるのが、東京美術学校での先輩・小磯良平である。それは、「先輩小磯氏をはじめ数々の画家なかまの知友を得ることの出来たのは幸いであった」という言葉に表されている。神戸出身で、小松より一歳年長の小磯良平は、異人館が多いことで有名な山本通りに、当時、邸宅とアトリエを構えていた。小磯のアトリエは、神戸の文化人たちが集う一種のサロンのような場になっており、家族ぐるみで小磯の世話になったという小松益喜も、そこへ足繁く通うようになる。

「いつも彼(小松益喜)の自転車が私の北野町の住いで待っている事が多かった。私は彼の西洋館がカンバスのデッサンから完成するまでの途中を一番よく知っているわけである」と、小磯良平は語っている。その小磯良平が、猪熊弦一郎、中西利雄らと、芸術の純粋性の確立のため結成した新制作派協会(現新制協会)に、小松益喜は、1936(昭和11)年11月の第1回展より出品し、翌年の第2回展では、新作家賞を受賞している。

「ダークグリーンの鎧窓の山本通風景」は、小松が第2回展で新作家賞に輝いた作品の中の一つである。画家自身、とても愛着を抱いているというこの作品には、山本通りの小磯邸のすぐ近所にあった白壁の異人館が描かれている。手前の道路は、当時はまだ舗装されていない。壁や塀の筆致に、対象の質感を巧みに表す小松芸術の特性がうかがえる。暗色系が主調を占めていた初期の風景画とは異なり、色調に微妙な変化のきざしが現れている。また、鎧窓や煉瓦塀が建物としっとり調和している様子に、特有の静寂感と詩情が感じられる。

1939(昭和14年、小松益喜は「山本通風景」等を出品した第4回新制作派展で、新作家賞を再度受賞している。そして、「朝の画廊(鯉川筋画廊)」などを発表した1941(昭和16)年には同会々員に推挙され、現在に至っている。

小松益喜と小磯良平の親交は、新制作協会や神戸洋画壇の歩みとともに、1988(昭和63)年に小磯が惜しまれつつ世を去るまで続けられた。小磯のアトリエをよく訪れていた小松益喜は、その作品の中にしばしばモデルとしても登場している。1937(昭和12)年の第2回新制作派展に出品された、小磯良平作「人々」や、1953(昭和28)年の第17回新制作派展出品の大作、「働く人びと」のエスキース(習作)として制作された、「働く人・男の休息」などがそれである。

制作現場に他人を人れるのを、小磯はあまり好まなかったが、それだけに、これらの資料には、二人の洋画家の親密性が、顕著に語られていると言えよう。