廣田生馬・高知に生まれ東京へ

益喜を語る

伊藤誠 南風対談 わが青春の日々 森田修一
廣田生馬 和田青篁 父を想う

高知に生まれ東京へ

神戸市に寄贈された作品の詳細を紹介する前に、長年にわたる街景描写を通し、人生の哀歓に迫る詩情を奏で続けてきた洋画家・小松益喜の、これまでの歩みについて概述を試みたい。


小松益喜は1904(明治37)年に、酒造業を営む小松石吉の9人兄弟の三男として、高知県土佐郡旭村(現在の高知市旭元町)に生まれている。1918(大正7)年に、高知市立工業学校(現高知県立工業高校)に入学する。同校在学中に、絵心のあった従兄弟に刺激を受け、絵画に強い興味を抱くようになり、二人で近くの鷲尾山から見た眺めなどを写生する。近辺風景を紙上に描く日々の中、画家になる決意を次第に確たるものにしていく。

1923(大正12)年、両親の猛反対を押し切り上京、川端画学校で藤島武二の教えを受ける。1925(大正14)年、東京美術学校西洋画科に入学、都内の下落合に住み、佐藤敬、中村鉄らと交友した。

高知で描いていたのは近辺の風景であったが、東京で描き始めたのもまた、近辺の風景であった。風景画家としての、気骨の源泉がここに感じられる。

この頃描かれた風景画としての一つに、「炭糟道の風景」がある。この作品には、下落合付近の一角が描かれている。中央やや右手の建物を中心に構成された画面は、大気のとどまりを感じさせる暗色系が、主調を占めている。道路に敷きつめられた石炭の燃えかすの質感や、それが地面ばかりでなく空気にも浸透している様が、巧みにとらえられている。また、電柱等の描写に端的に表れている素早く大胆な筆致は、美校在学中、フォーヴィスム(野獣派)に刺激を受けていたことをうかがわせている。

1930(昭和5)年、小松益喜は東京美術学校を学業、同郷で幼なじみの三木登喜(とき)と結婚した。登喜夫人は、小松益喜の制作活動を、長年かたわらで支え続けた人であり、その偉業の陰の立役者とも言える。また、夫人の姉が神戸市灘区に住んでいたことも、後に街並みの美しさに魅せられた小松が、神戸にとどまるきっかけの一つともなるのである。

同じ1930年の8月には、第17回二科展に「雨の止んだ時の風景」が入選する。


しかし翌1931(昭和6)年、昼夜政治活動に身を投じる日々の中、極度の過労が原因で体調を崩し、高熱を出し続けた後、記憶を喪失するに至ってしまう。東京では、思うように体調が回復せず、郷里・高知で静養する為に、夫人とともに東京を後にする。